2006.12.4
女中さん
島 健二
昔、女中という言葉は、一般的に素性が分からない場合に、比較的丁寧に用いられたようです。
呼びかけにも使われて、「もしもし、そこなお女中」と呼びかけるのは、決して失礼な呼びかけではなかっ
たようです。広辞苑にも女中として、@殿中などに奉公する女性。A女性の総称とあります。
私達がまだ子供の頃には転用されて上中流の一般家庭または商家等に奉公する女性を呼ぶようになったよう
です。そのなかにも自然と階級のようなものが生まれて、奥女中、小間使い、下女のような区分があったよ
うに思います。
私の幼時の記憶では、東京の山の手の中流以上の家庭には、数人の女中さんがいて、奥使い、小間使い、
下働き等漠然とですが役向きが分けられていたようです。その他行儀見習いと称する職分はそれほど判然と
はしませんが、母や女中頭が一挙手一投足を注目して、見苦しくないように指導する女中さんもいました。
人数は家庭や商家の規模等にもよるでしょうが、私のところ、つまり年寄り2名、両親、子供3名の割合に
広い役人の家で、女中さんは常時2〜3名、時には4〜5名いるときもありました。
地方の家庭の娘さんで特に就職という目的ではなく、一定期間大都会の然るべき家庭に預けて都会での行儀
見習いをさせる風習があったようです。
行儀見習いさんは、東京では東北地方から来ている場合が多く、大阪、神戸京都等では関西、四国、九州等
が多かったように聞いていましたが、一人だけ変わった遠方からの行儀見習いさんがいたのを覚えています。
その人は純朴な感じが良くわかる、それでいて素直に大人しく育った感じが見える人でしたが、ナント九州
の徳之島からはるばる来た人でした。
2年ほど我が家に居て、都会風な教養と物腰を身につけて故郷へ帰りましたが、恐らく徳之島では旧家の娘
さんで、その後どうしたか聞いていませんが、戦争中を無事に越えていれば幸せな人生を送ったでしょうと
思います。私より2〜3才年上のひとでしたから、今はもうわかりませんが…。
この人は明るい性格で、素直で、直ぐに私達の家庭に溶け込んで、母のいう事を良く聞いてよく働いてくれ
ましたし、行儀見習い的にも分からないことは積極的に覚えようとする意欲に燃えた人で、家族内の評判も
良かったのですが、惜しいことに容貌は全くいただけないのです。
狭い額にペシャンコな鼻、大きく部厚いめくれ上ったような唇に、出っ歯と年頃の女性にしては気の毒なく
らいでした。向学心には燃えていて、夜、仕事を終えたあと、夜食を持って私の勉強部屋へ来て、文学や
音楽等の話題で話し込みました。私もそういう話は話し相手が欲しいので、知っていることは丁寧に教えて
あげましたが、ある日母から「お父さんが心配しているわよ、K子がオケン(私)に好意的で、勉強部屋へ
長時間入り込んでいるが、大丈夫か?」と言っているから気を付けなさいということです。
私は憤慨しました。私も思春期の入り口くらいにはいましたから、親の立場として万一の心配をしたので
しょうが、私にとっては心外です。
早速父に面と向かって、「ボクにだって選ぶ権利はある。ボクはかなり面食いなんだよ」と言ったのです。
まさかK子本人の耳には入らなかったでしょうが、それから文学、音楽の弟子は夜間の来訪がグッと少な
くなりました。
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