2006.9.11
面会の行き違い



                                                                                 島 健二

 
毎年この頃になると、テレビなどで終戦当時のことを色々と報道しますので、私の頭にも当時のことがグル

グルと走馬灯のように浮かんでは消え、消えては浮かびます。


前に書きましたように、私は昭和20年7月1日に東部第50部隊(長野県松本)に入営して、新兵として

の教育を受けていましたが、海軍の応援という名目で8月14日に横須賀へ移動し、翌15日に横須賀で

終戦の詔勅を聞いたわけです。

そこで武器弾薬の米軍への安全引渡しという大仕事も無事に完了し、残務整理といっても特に目立った仕事

はないまま、日本軍の残留分隊という形は保ちながら、アメリカ兵たちと次第に慣れ親しんで、物資や情報

の交換などをして復員命令を待つばかりとなっていました。

我々(十数名の元日本兵)が駐屯する田浦小学校は勿論アメリカ軍の監視下にありましたが、規律正しく、

平穏に振舞う限りは自由を認めてもらえましたし、勿論旧日本軍上層部からも何の制約も受けませんでした

ので、アメリカ側の許可を受けて一日に二三人は「日帰りで実家の様子を見に行って来て良い」ということ

になりました。(私たちは皆、東京、神奈川、埼玉、千葉等近郊の出身なので……)


中には空襲に遭って消息が知れないなどという人もいましたが、私の場合は焼け残って、皆無事と分ってい

ましたから、アメリカ兵たちからゲットしたチョコレート等のお土産を携えて、世田谷、野沢の我が家へ向

かいました。朝早く出たのですが、その頃はまだ、交通事情が整っていませんでしたので、昼近くになって

ようやく我が家に辿り着きました。


家にはちょうど母と祖母、姉がいました。

「アーラお帰りなさい。よく来られたわネ。貴方の様子を見るために、お父さんとお兄さんが今日横須賀へ

出掛けたところなのよ」と母が言います。

その頃はまだ治安も良いとは言えず、ことに「女、子供の外出は危ない」と云われていました。

この日母も一緒に行きたかったのですが、人一倍心配性な父が許す筈がありません。

取り敢えず兄と二人でということで、母はお留守番となったのだそうです。

母は私のために心尽くしのお稲荷さんや海苔巻き、ソーセージに卵焼き等を作って父に持たせたそうです。

勿論留守番組にも同じ昼食がありました。

軍隊での話や留守中の我が家の話も賑やかにおなか一杯に母のご馳走を戴きました。

満腹して、我が家の畳の上にゴロリと寝そべって……。いいものです。

「私は何とかして行きたかったのだけど、お父さんはあの通りの慎重屋さんでしょう、どうしてもいけな

いって…。でも良かった、お留守番していたら貴方が来てくれた。気持ちが通じたのネ、きっと」と母も

上機嫌でした。


日帰りですからあまりゆっくりは出来ません。

それでも激動期を乗り切って久しぶりの親子の」再会ですから、話の種は尽きません。

「又来てね」「又来るよ」と別れて横須賀へと帰りました。

父と兄とはすれ違いで会えませんでした。

横須賀へ帰って同僚に父や兄の様子を聞いたところ、大変に緊張した様子だったと知って「さもありなん」

と危険や困難に遭うかのように大変な覚悟で、私に会いに来てくれた父と兄の様子が絵に描いたように分

かりました。

父と兄が持参したご馳走は同僚達と分け合って食べました。

今となっては懐かしい思い出です。

九月中旬ごろのことだったと思います。

予想よりも早く、10月1日に復員命令が出ましたので、抜け出しての家帰りはこれ1回だけでした。

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