2006.8.10
最初の空襲
島 健二
また八月がやって来ました。
今年もテレビは広島、長崎の原爆を始めとして、終戦の日の模様、戦争そのものが持つ悲惨さを繰り返し
て伝えていますが、あれからもう六十一年が経ちます。
あの頃経験した悲惨な事実を後世に語り継ぐことは勿論大切なことですし、私自身も東京大空襲を体験し
ており、また短期間ですが、軍隊での体験など、想い出はいろいろありますが、比較的に幸運に恵まれて、
後世に語り継ぐほどの艱難辛苦には遭っていませんので、苦労話よりも、ホッと肩の力が抜けるような笑
い話をご紹介します。
あれは所謂東京大空襲よりも以前のことだったと思いますから、昭和19年の末か、昭和20年の1月か
2月だったでしょう。
近い内に東京空襲があるという噂がしきりだったため、我が家でも敷地内にかなり頑丈な防空壕を作り、
イザという時はこの防空壕に避難する手筈でした。
その日は一日中雨もようで、シトシトと冷たい雨が降り続いていたように記憶しています。
戦時中の貧しい夕食の膳を囲んでいた時でした。
突然空襲警報が鳴りました。食事は概ね済んでいたので、急いで片付けようとした時、シャーッという不気
味な落下音に続いてドス−ンという大音響と共にガラガラガラと家全体が大地震のように揺れました。
お祖母ちゃん以外は皆咄嗟にその場にひれ伏しました。
(お祖母ちゃんはお膳に向かってまだ食べていたようです)
地震のような揺れは直ぐにおさまりましたが、空襲警報下ですから、これが爆弾というものかと早速防空
壕へ退避です。責任ある立場を意識し過ぎてか父が一番慌てていたようです。
冷静沈着だったのは母でした。
兄と私にテキパキと指示して、必要と思われる物を持って素早く退避しました。
お祖母ちゃんは一番後からご飯のお櫃を抱えて悠々と防空壕へ。
お祖母ちゃんにとっては一番大切な物だったのでしょう。
はじめての空襲ですから皆不安でした。
空を飛ぶ飛行機の音は聞こえましたが、それきり爆弾も落ちません。
でも怖い、足元からゾクゾクと震えが来るようでした。
しばらくしてお祖母ちゃんが「お手洗いに…」と防空壕外へ出ようとしました。
「こんな時に手なんか洗わなくても…」と父が怒ります。
「いえ、オトイレ、それも大きいの」と祖母。
「仕方ないな、我慢出来ませんか?」と父。(無理ですよね)
「家の中まで行くのは危ないから、何処かその辺の木の下ででも… 」と峻厳な父。
「それじゃぁズブ濡れになるよ」と私が助け舟を出したところ、
「それならお前が傘を差し掛けてあげなさい」と藪蛇。
余計なことを云ったと後悔しながら私は傘を差し掛けてあげました。
父に叱られて引っ込んでしまったのか、お祖母ちゃんは中々用が足せないようです。
藪蛇の私は、最初のうちはお祖母ちゃんを快く思っていませんでしたが、きつい物言いをした父に対して
の反感が強まって来て、「お祖母ちゃん、あせらないでいいよ、ゆっくりね」と声を掛けてあげました。
お祖母ちゃんも気が楽になったのか「有り難う」と言いながら御用が足せたようです。
私は自分がずぶ濡れになったのも気にならず、ホンワカと匂うのも寧ろ安心感で、
「お祖母ちゃん良かったね。また何かあったら付き合ってあげるよ」と声を掛け、家族一体感を味わって
いました。父には抵抗を感じながら…。
この夜爆弾が落ちたのは一個きりで、近くの柿の木坂付近とのことでした。
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