2006.7.30
十六夜清心
島 健二
先日歌舞伎チャンネルで、「十六夜清心」を観ました。
「十六夜清心」というのは通称で、本外題を「花街模様薊色縫」又は「小袖曽我薊色縫」と云い河竹黙阿弥
作の世話物の代表作の一つとされています。
安政6年(1859)江戸中村座で初演、大人気を博した由。
今回の放映は、平成9年11月に歌舞伎座での所演のビデオで、「花街模様薊色縫」(さともようあざみの
いろぬい)の外題を採用しており、尾上菊五郎丈の清心、中村芝翫丈の十六夜、中村吉右衛門丈の白蓮、
尾上松助丈の船頭、尾上菊之助丈の寺小姓求女という配役でした。
十六夜と清心の心中に始まり、それぞれ死に損ねて命を永らえた二人の身の上の変化や、心の変化を描き、
後には思いも掛けない方向へとストーリーは転回するのですが、最近では通しで上演されることが少なく、
発端部分の、生き永らえた両名が「だんまり」模様ですれ違う場面までを上演することが多く、今回も同様です。
私もこのお芝居は、この発端部分しか観たことがありませんが、後に展開する複雑な兄弟、姉弟関係や、
清心と十六夜が名前を変えての悪行ぶりや最後にはやはり身を滅ぼすストーリーの展開はさして興味を持てず、
しばしば上演される、美しい清元に乗った心中場面の進行、間に十六夜が救出される「川中白魚舟の場」を挟
んで元の「稲瀬川百本杭の場」に戻り、花道から登場する寺小姓求女と本舞台の清心が交わす「割りせりふ」や、
大向こうから「待ってました」と声が掛かる名科白、「しかし待てよ。今日十六夜が身を投げたのも、またこ
の若衆の金を取り、殺したことを知ったのはお月さまと俺ばかり……中略……こいつぁめったに死なれぬわぇ」、
そして幕切れに「だんまり」模様で関係者がすれ違うこの発端部分で、充分後の展開を暗示しているのではない
でしょうか?
時に通し上演で全貌を知るのも意義がありますが、美味しい部分のみの上演も、忙しい時代の興行の知恵として、
エッセンスを満喫する方策ではないでしょうか?
優れた、面白い場面だけが繰り返し上演される理由です。
説明部分が長くなりましたが、今回の「十六夜清心」は配役に恵まれて見ごたえ充分でした。
菊五郎丈の清心は申し分なく美しく、役の解釈、仕草も堂に入ったものです。
僧侶役が良く似合う人です。
芝翫丈の十六夜、流石に年季の入った演技はケチのつけようもありませんが、菊五郎丈との釣り合いで、
もう少し若い人の起用が望ましかったと思います。
9年前ですから菊之助丈ではまだ若すぎたのでしょうか?
しかし芝翫丈の口跡の良さは発声に難のあるご子息、福助丈に受け継がせたいもの……。
菊之助丈の求女は良い出来、女形と立役の中間の若衆役の難しさをうまく表現していました。
吉右衛門丈の白蓮は、あまり仕所のない風格だけの役ですが、流石の貫禄でした。
松助丈の船頭は目立たずに達者、この貴重な脇役を失ったことは菊五郎劇団にとって大きな痛手でしょう。
後半の波乱万丈の展開を暗示するかのような、関係人物が揃っての「だんまり模様」の場面で締めくくった
「十六夜清心」の一幕、楽しい余韻を残して、見応えがありました。
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