2005.5.3
公徳心

                                                           島 健二


退屈しのぎにぼんやりとテレビを見ているうちにだんだんと腹が立って来ました。


ゴミの山

どこかの河川敷の様子を報じています。始めは放置自転車やその他のゴミの山です。

誰がいつ捨てるのか、ゴミはドンドン増えて、足の踏み場もないほどに一面ゴミの

山と化しています。

誰かが捨てると真似をする者が現れ、たちまち当然のゴミ捨て場となるのでしょう。



バイクの横暴

次にはバイクの横暴通行です。

ここは通行禁止の場所だそうですが、通行区分もなく、勝手次第にかなりのスピード

で走りまわっています。

監視員が注意をしても無視して走り去る者や、「文句を云われる筋合いはない」と

すごむ者、「すみません知りませんでした」ととぼけて謝る者、さまざまですが、

違反者は増えるばかりだそうです。子供の遊び場でもあるため、その中をバイクが

かなりのスピードで走るさまは危なくて見ていられません。



迷惑ゴルファー

次は迷惑ゴルファーです。

練習場でもない河川敷の原っぱで、打ち放し練習場のようにボールを打っています。

ボールが飛んで行く前方には、行き交う人々の姿が見えて危ない限り、よく無神経

に打ち放し練習が出来るものです。

監視員が注意をすると一応は練習をやめ、「知りませんでした。もうしません」と

帰ってゆきましたが、草むらの陰に大量のボールやクラブが残されていました。

監視員が去ればまた戻って来て、再び始めるつもりに相違ありません。



公徳心の欠如

こうした一連の無法はどうして横行するのでしょうか? 

一言で云えば「公徳心の欠如」ではないでしょうか。

「公徳心」とは辞書をひけば「公徳を重んずる精神」とあります。

さらに「公徳」とは「社会生活の中で守るべき道徳」です。

これらのことは、昔は家庭教育、学校教育どちらでも真っ先にくり返し教えられました。


「禁じられたことはしてはいけない」「他人に迷惑をかけてはいけない」「老人や

子供をいたわらなければならない」「自分勝手に振舞ってはいけない」等々は当り前

のことで、昔は親も子も自然と戒めを守る習慣がついていたものでした。



戦後の教育の失敗・公徳心の取り戻し

それが戦後の教育ではガラリと変わったように思います。

「国家のため、社会のため」ということは全く教えず、

「個の権利、個の主張」ばかりを強調して個人主義を育てたのです。

私がいつも言う「日本人を個人主義、利己主義に変えようとするアメリカの策略」

に見事に引っかかったのです。

「社会のため、国家のため」に団結した日本人の強さを恐れて一億総ジコチュー化を

図ったのです。良い意味での個人主義を否定するつもりはありませんが、「利己主義、

ジコチュー」は困ります。

勿論戦争を起こすような「国家のための団結」はいけませんが、

良い意味での「国家のため、公共のため」は大切なことです。


「自分だけがよければいい」「悪いことでもバレなければいい」「みんながするから構

わない」と考えるのがこの謝った教育の結果となったように思います。

日本人が本来もっていた公徳心を取り戻しましょう。

親がそうすれば子供もそれを守るようになると思います。
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