2005.4.18
父母のいる場所


                                                               島 健二


「ふるさとは遠きにありて想うもの」という言葉があります。

私は東京生まれ、東京育ちのせいか、「ふるさと」という感覚があまりありません。

皆さんが好んで歌う唱歌「ふるさと」で、「兎追いしあの山、小鮒釣りしかの川…」と

一緒に歌いながらも、『東京には兎を追う山も、鮒を釣る川もありはしない』などと、

しらけた思いをしたりしていました。


東京生まれ、東京育ちでも、東京を離れた土地に住み着いて長年暮すようなことになれば、

東京を「ふるさと」として懐かしく想うのかも知れませんが……。


勿論生れた土地「東中野」や育った土地「世田谷・野沢」にはある種の懐かしさ、

愛着心はありますが、「ふるさと」というような感覚ではないのです。



また「家」というものにも特別のこだわりはありません。

もともと「父祖伝来の土地と家」というものがない我が家は、

父が地方への転勤がなかったため、私の幼少期から青年期にかけては、

東京の内部で東中野から世田谷・野沢、そして世田谷・赤堤、大森へと転宅しましたし、

また私が結婚しましてからは、大阪・住吉の社宅、神戸・須磨の家内の姉の家に同居、

西宮・香枦園のアパート、豊中市・旭丘団地、そして東京へ戻って大森の父の家に同居、

社宅住まいになって高円寺、経堂、中野・鍋屋横丁へと忙しく転宅、

それも殆どが共同住宅(アパート)住まいで、私達の「家」という感じはありません。

その後、世田谷・野沢に家を建てて12年を過ごしましたが、此処での12年間は前に

記しましたように、「ケチがついたマイホーム」で印象が悪く、

楽しい我が家として想い出に残るような「家」とはなりませんでした。


そのため、「懐かしい我が家」と呼べるものがないのです。

強いて挙げれば子供の頃育った世田谷・野沢の家でしょうが、

この家はとうになくなってしまいました。



父母が晩年を過ごした世田谷・赤堤の「家」は、私も青年期に何年か過ごした家を建て替えた

「家」で、それなりの懐かしさのある「家」でしたので、両親の没後、兄の代となってからも、

久田恵さんの表現を借りれば「父母のいる場所」という感覚もあって、毎週泊りがけで訪れて、

兄と昔話を楽しんだりしましたが、昨年兄が家と土地を処分してマンションに転居しましたの

でなくなってしまいました。



83才になって独り身では広すぎる一軒家に住んでいた兄が、家と土地を処分してマンション

住まいに切り替えるのには賛成でしたし、年齢的にギリギリの時点でよく決断したと思ってい

ますが、このマンションへは二三度は訪ねてみたものの、懐かしさのある「家」ではなくなっ

ていたのです。


勿論、父母の位牌も兄と一緒に引越しして仏壇に祀られているのですが、「父母のいる場所」

ではなく、兄の住むマンションに過ぎなくなってしまいました。



兄にはすまないのですが、もう毎週泊りがけで訪ねて、昔話を楽しむ場所ではなくなったの

です。昨年の夏ごろから、私がたまたま膝痛が酷くなって歩行が困難なため、殆ど外出しな

いようになったのを理由として、定期的に訪れるのを止めにしてしまいました。

私自身ももう80才になりますし、これで良いのだと思っています。



「父母のいる場所」は、結局は世田谷・三軒茶屋の教学院の墓地ということになるのでしょ

うか? 遠きにありて想う「ふるさと」や「父母のいる場所」としての「家」がないのは何

となくつまらないような気持ちがしますが仕方がないことです。


訪問しなくなったので、兄と互いの安否は毎日定時に電話をして確かめることにしています。


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