2004.12.6
プロ野球雑記帳A
大選手の逸話


                                                               島 健二

○若林忠志投手 

ハワイ生まれの日系二世で、つとに本格派投手として頭角を表しており、

昭和3年、法政大学に入学する際に、法大が突出することを恐れた他の5大学から

「日本の大学へ入学する者は日本の中学を卒業していなければならない」とクレームが

付き、そのため1年間本牧中学に籍を置いて、翌昭和4年に22才で法大へ入学したと

のことです。


私の記憶にあるのは、昭和9年の法大3回目の優勝の時だったと思います。

この年、若林投手は主将でエース投手を務め、

鶴岡選手が入学して新人ながら全試合3番打者を務めて活躍したのです。

若林投手は27才だった筈で、一段と大人に見えました。

昭和11年日本プロ野球開始と共に、若林投手は大阪タイガースに入団し、昭和25年、

2リーグ分裂の時にパ・リーグ毎日オリオンズへ移籍しました。

この年若林投手は43才ながら、日本シリーズ第一戦に先発して延長12回を投げ抜き、

毎日の優勝に大きく貢献しました。昭和28年に引退。



私が記憶している若林投手は、本格派剛球投手というよりは「七色の魔球」を操る頭脳

派投手でしたが、何よりも強調したいのはその投球術と信念です。

何の時かいつの試合かは全く覚えていませんが、強く印象に残っている逸話をご紹介し

たいと思います。


自チームが2点リードして迎えた最終回、

二死、走者二、三塁のピンチを迎えた若林投手は、続く相手チーム三番打者を敬遠して

満塁とし、さらに続く四番打者をも敬遠、押し出しの四球を与えて1点差、そして次の

五番打者を見事に三振に討ち取って勝ちました。


この二つの敬遠四球について聞かれた若林投手は、「三番打者に打たれると一挙に同点

だから満塁策をとった。四番打者も絶対に討ち取れる自信がなかったので、押し出し四

球ならまだ1点リードだから歩かせた。5番打者には絶対打たせない自信があった」と

答えたのです。

これだけの読みと信念をもって投げたピッチャーは他に見たことがありません。



○鶴岡一人内野手


昭和9年、広島商業から法政大学へ入学した新人としてのシーズンから三番打者、三塁

手として活躍、昭和10年には6打数6安打の記録を持つ好守好打の内野手でした。

兵役の関係もあって、昭和14年にプロ入り後、プロ野球での選手としての実働は8年

間(内3年間は監督兼務)と短かったのですが、優れた統率力を買われて南海ホークス

(ダイエー・ホークスの前身)の監督として23年間活躍しました。


本塁打者というよりは確実性の高い好打者のタイプで、私が一番好きなタイプの打者で

した。

この人の逸話としてご紹介したいのは、バッターとして打席に入って、2ストライクを

取られるまでは絶対に打たないのです。

好球必打で初球からでも打って行けばもっと打率が上がったのではないかと感じたこと

もありましたが、この人の野球哲学は違うのです。


何故2ストライクを取られるまで打たないかについて、問われた時の答えは、

「どんなに好打者でも3打数に1安打の確率しかない。出来れば四球を選んで出塁した

方がチームのためになる。また相手の投手に多くの球数を投げさせて消耗させれば球威

が落ちて来るから、その方が投手攻略が容易になる。反面、自分としては2ストライク

後でもヒットを打つ自信がある」ということでした。

これも自信に裏付けられた立派な信念だと感じ入った次第です。             目次へ