2004.6.19

経済失調と贅沢三昧


                                                                   島 健二

マイ・ホームの建築に付帯して色々お金が掛かった揚げ句に家内のノイローゼでクリニック

通い、遂には入退院、リハビリ、鍼灸治療と次々の出費に我が家の経済は正に火の車でした。

そんなこともあって、家内が車椅子の生活となったことから、老後の生活のことも考えて、

経済立て直しをも兼ねて、ケチの付いた「モグリのマイ・ホーム」を売却して老人ホーム入

居に踏み切ったのですが、何しろ今までに説明したような厄介な土地ですから、買い手が中

々ありません。困っているところへ助け舟を出して下さったのがG社長でした。


G社長は大変男気のある方で、私とは同期入社の間柄ですが、当時要職を務めていた親友O

さんの仲立ちもあって事情を知った上で会社として買い上げる方法をとって下さったのです。

100坪の土地を売ったのですから、このシルバーヴィラへの入居費用を支払い、税金を支

払ってもかなりの額が手許に残りました。OさんとG社長には心から感謝しています。

しかし経済立て直しはうまく運びませんでした。


シルバーヴィラに入居して間もなく家内は2度目の入院となったのです。

リハビリと健康法を兼ねて鍼灸の先生に往診して頂いていたのですが、あるとき先生が帰り

がけに私に「奥さんは多分膵臓に異常があると思うから、病院で検査してもらった方が良い」

と言われたのです。

J病院の消化器内科ははじめての受診でしたが、良い先生に恵まれました。

膵臓の辺りに大きなシコリがあるので、入院して色々検査をした方が良いということになり、

入院して様々な検査を受けました。本人にははっきり言わなかったようですが、私には「癌

の可能性が80%ある」と云われました。


色々と検査をするうちに、癌の可能性は70%、60%、五分五分へと減少して行き、最後

の決め手となる「血管造影」という検査の結果、「癌細胞なし」という嬉しい診断となりま

した。しかしこの検査はとても苦しい検査のようで、我慢強い家内も「死ぬかと思うくらい

苦しかった」と言っていました。

診断された病名は「膵嚢胞」ということで、膵臓に分室のようなものが出来てそこに分泌液

がたまっていると説明されました。

ただ私には「癌細胞がなかったことは良いのだが、膵臓を始め胆道系の消化器全般にかなり

の病変があるので、治療を続けなければならず、また長命は期待できない。あと5年くらい

の余命と考えておいた方が良い」と云われました。ショックでした。

処置としては、とにかく嚢胞にたまった分泌液を抜き、しばらく様子を見てからチューブを

抜いて退院の運びとなりました。

そのあとは定期的に通院して検査を受けるわけですが、経過は順調で、それもだんだん間遠

になり、最終的には年に2回の検査でよいことになりました。


本人もどんどん元気になり、活動的になってきました。それは良いのですが、何をするにし

てもタクシーが必要です。私も遅ればせながら53才で運転免許を取得し、車も買いました

が、どうも運転は好きになれませんでしたし、あまり上手にもなりません。また酒好きなの

に運転をすれば飲めません。どうしてもタクシーとの併用になります。駐車場の関係もあり

ますし、行く先も限定されます。

どうしてもホテルを利用することが自然と多くなりました。

私が一緒でない時もベルボーイさん達が世話をしてくれますし、ホテル内の色々な店でショ

ッピングを楽しむことも出来ます。レストランやバー等もありますし、勤務を終えた私と待

ち合わせて食事を済ませて帰宅するのに便利です。そのうちに宿泊する便利さを覚えて、月

に1度は1,2泊するようになりました。


箱根や軽井沢などへもドライブ、または泊りがけで行きました。

こんなお金の遣い方をしていたら、手許にある相当のお金も直ぐになくなってしまうことは

分かっていましたし、祐子先生も心配して忠告して下さいましたが、私には「せいぜいあと

5年」と云われた家内の余命が頭から離れません。

「分不相応の贅沢でも構わない。生きている間に望むことを何でもさせてやろう」と贅沢三

昧をやめませんでした。欲しがるものはミンクのコートでも宝石類でも買い与えました。


家内の状態は元気な時と調子の悪い時の繰り返しでしたが、目に見えては悪化しませんでし

た。こうした贅沢三昧な生活を送るうちに5年は瞬く間に過ぎて7年を経過しました。

余命5年というのが嬉しい誤算でした。

ただし我が家の財政事情はこの嬉しい誤算に伴って又もや逼迫してしまいました。

借金もだんだんと嵩むことになり、借りては返すような状況となって来ました。

苦し紛れに採った方策は退職をし、退職金で借金を返し、自宅で翻訳業を営むことでした。


63才まで在職して良いことになっていましたが、G社長にお願いして、60才で退職させ

ていただいたのです。翻訳業を営むと云っても特別な優れた語学力を持っている訳ではあり

ません。今度もG社長がお力添え下さいました。会社の各部門に声を掛けて下さって、私に

優先的に仕事を回すように計らって下さいました。


私も必死で会社以外にも働きかけ、協会の仕事もさせてもらうようになり、年金とあわせて

かなりの収入を得ることが出来ました。

こうして四苦八苦しながらもやり繰り算段して、以前ほどには贅沢三昧は出来ませんが、あ

る程度の豊かな生活は続けました。一度ついた贅沢癖は急には直らないのです。

自宅で仕事をするようになって、家内の寂寥感も幾分緩和しましたが、この頃から容態が悪

化し始めたのです。取り敢えず近所の病院への入院を考えているところに、私が脳梗塞を起

こしたのです。絶望感に襲われました。

家内と枕を並べて「我々の人生も終ったね!」と話し合ったのを思い出します。

でもまだ運が残っていたのでしょう。家内の入院を祐子先生にお任せして、相前後して別々

に入院した私の脳梗塞は意外に軽く、10日間の入院で済んだのです。

しかもダメージを受けたのは右脳で、左半身に軽い麻痺は残ったものの、記憶力、判断力は

損なわれず、言語障害もなく、翻訳業を再開できたのです。


家内の病状も一応回復し、それから更に5年間生き延びたのです。

この12年間、苦しみながらも続けた贅沢な生活は私にとって生涯の想い出です。

後悔はしていません。家内にこんな贅沢な生活をさせることが出来たことに満足しています。

経済失調と贅沢三昧の想い出です。この想い出に縋って余生を心静かに送ることが出来ます。


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