2004.5.19

社宅退去後の関西での生活

                                                                   島 健二


妻が七輪(増田さんから関西では七輪とは言わないで「カンテキ」というとの注意があり

ました)で火を起こすという大阪住吉区での不便な社宅生活で疲れて体調を崩し、微熱が

続いて心配だった時に、ちょうど家内の姉夫婦がNK銀行の神戸支店に転勤となり、須磨

の社宅に住むことになりました。

子供がいない姉夫婦が住むには広過ぎる大きな家なので、同居しないかという誘いがあり

ました。勿論家内には大歓迎な誘いでしたが、私の母は反対でした。

夫婦の基盤を作る大切な新婚時代には、身内に頼らない自立心を養成することが必要なの

で、姉夫婦との同居はどうしても依頼心が高くなるので好ましくないという考え方です。

私もその考え方は理解出来ましたが、微熱が続く状態が心配だったので母を説得しました。

母もそれほど強くは反対しませんでした。

後年母が心配した結果が出てしまいましたが、仕方ありません。

ともかく社宅を出て、姉夫婦との同居生活が始まりました。

家内にとっては、これまでと打って変って天国のような生活だったでしょう。

義兄と私の出社中も仲の良い姉と一緒ですし、勿論生活費は折半しますが、今までよりも

豊かな暮らしが出来ます。環境も変わって、心斎橋筋や道頓堀とは雰囲気の異なった神戸

の三宮や元町でのショッピングです。

大阪とはひと味違う神戸は家内にとって魅力的だったようです。

週末には夫婦2組でドライブに出掛けたり、買物や外食を楽しんだり、二人だけの楽しみ

とは又違った楽しみでした。

須磨の社宅は須磨天神の裏手にあり、海岸に近かったので、夏は水着の上にタオルなどを

羽織った姿のままで天神様の境内を通り抜けて海水浴が楽しめました。

ホームシックと気疲れで悪かった家内の体調も直ぐに良くなり、微熱も取れました。

私が大阪支店に通勤するのには少し遠かったのですが、都合が良い時間帯に、朝も夕も直

通する列車があり、それほどの時間のロスもありませんでした。

むしろ家内は帰宅する時間が一定するのを喜んでいたくらいです。


銀行は転勤のインターバルが短いので、当初から2年くらいと分かっていましたが、事実

2年後に義兄はまた東京に戻ることとなり、須磨での楽しい生活は終りました。

私たちはまだ大阪支店に残るので、住家を探さなければなりません。

同じ課にいた親切な先輩が住む阪神沿線の香枦園に新しいアパートが出来たことを知らせ

てくれました。見に行ったところ、狭いけれど家賃も手頃でしたし、家具の配置などを工

夫すれば住めるということになり、そのアパートに決めました。

家内は隣りの部屋に住む一人暮らしのご婦人と直ぐに仲良くなりました。

社宅での対人関係には色々な煩わしさがありましたが、今度のように全くの他人同士は却

ってうまく行くようでした。私も安心して出勤できる日々が送れました。

短い期間でしたが、しばらく安定した生活が続きました。


普通ならそろそろ子供が出来る頃でしたが、家内が比較的に身体が弱く、事実体調を崩し

て微熱が続いたりしていたこともあって、当分の間子供を作るのは見合わせようというこ

とになっていました。双方の親達も互いに末っ子同士ですので、特に後継ぎを欲しがるわ

けでもなく、催促されたりはしませんでした。

結局はタイミングを失してしまい、子のない夫婦となってしまいましたし、後に子供がい

た方が良かったかなと思うこともありましたが、色々なことが起きましたので、子供がい

なくて却って気楽だったと思います。


香枦園のアパートでの生活の間に、今度は家内の父母が仕事の関係で、やはり阪急沿線の

岡本に引っ越して来ました。

家内の父はかつてM物産の外国支店長をしていた人で、戦後パージのような形で物産をや

め、自分で小さな会社を経営していたのですが、M銀行から頼まれて経営不振な関西のあ

る会社の立て直しのために、その会社の副社長に就任したのです。

家内は大喜びでした。阪神電車の青木(おおぎ)駅からバスで岡本に行かれますので、頻

繁に岡本の母を訪ねて、私も会社の帰りに岡本へ寄り、夕食をいただいて帰宅するという

日が多くなりました。ちょうどその頃、先に香枦園のアパートを世話してくれた先輩が住

宅公団の豊中市の旭ヶ丘団地に当選したところ、東京へ転勤になったので、代わりに入ら

ないかと声を掛けてくれました。当時はのんびりした時代で、そんな融通が利いたのです。

香枦園のアパートは住み心地は良かったのですが、余りにも手狭だったので、その話に乗

って豊中の団地に引っ越すこととなりました。

西宮乗換えで、岡本にも行き易かったこともあります。

この団地での生活も快適だったのですが、後半には家内の父が癌に冒され、2度の入院、

手術の結果、結局は亡くなってしまったので、この団地での生活を楽しむ時間が少なく、

岡本通い、病院通いが多かったのです。

父の没後、母は東京に戻り姉夫婦と同居することになり、二三ヶ月後には私にも東京へ転

勤の辞令が出て、私たちの関西での5年間の生活は終りました。
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