2004.5.4

社宅での新婚生活


                                                                    島 健二

自分史的に「昔話筆の向くまま」を連載しています。

一応順序だててタイトルを選んで筆を進めているつもりですが、

あとで思い出して「こぼれ話」が出て来ます。

そうするうちにまた「こぼれ話のこぼれ話」が出てくるので、「ちょっと休憩」という

形で間に挟んで行きたいと思います。



ダンス

昭和29年10月に結婚して、大阪で新婚生活を送りました。

前に書きましたように、ガスのない不便な生活を強いられましたので、色々なことがあ

りました。七輪に新聞紙、割り箸で炭火を起こして炊事したことを書きましたが、炊事

に限らず、すべてに不便でした。

10月から新生活を始めましたので、直ぐに冬の季節が訪れました。

心斎橋筋やら道頓堀で外食したり、映画を見たりして帰宅した時に先ず直面するのが暖

房の問題です。今のように冷暖房が完備していない当時の冬は大阪でも結構寒かったも

のです。当時の暖房は火鉢と炬燵ですが、いずれも炭火が頼りです。

炬燵も確か当時は電熱式のものはなく、炭火かタドン、練炭、棒炭等いずれにしても炭

火の変形だったと記憶しています。

前述のように新聞紙、割り箸〜炭火という手順で火を起こすわけですから手数が掛かり

ます。そこでコートを着たままで火を起こし、分量を増やして火鉢や炬燵を温める間、

ダンスをして、体を動かしていたのです。

私達が住む二階の六畳間の真下に高校生の坊やの部屋がありました。

我々若夫婦の生活に興味があったのでしょう。階上でのダンスに気が付いて二階に上が

って来て「教えてくれ」ということになりました。

感じの良い子でしたので、直ぐに仲良くなり、社交ダンスの手ほどきをして上げたりし

たものですが、後から考えるとちょうど年頃の子ですから、ダンスだけではなく、真上

の部屋に住む私達の新婚生活の一部始終に興味を抱いて観察されていたのだろうと気付

いて気恥ずかしい気もしました。


電気洗濯機

当時の洗濯はまだ手洗いが主流で、電気洗濯機は普及していませんでした。

わざわざ電気という文字を用いるほど珍しいものでした。

私の場合は兄が東芝に勤めていた関係もあって、新しく開発される家電製品に興味もあ

り、結婚祝いに兄が洗濯機を贈ってくれたので、持っていました。

最初に開発された洗濯機で、中心部分が右に左にゴトンゴトンと回転するものでしたが、

珍しがられました。

同期入社の友人の奥さんから家内が聞いた話ですが、我が家で洗濯が始まると階下の課

長夫人が電気メーターをジッと見つめていたそうです。

電気料金は灯数割で支払っていたので、洗濯機がどのくらい電力を食うかが気になった

のでしょう。階下の人達は悪い人ではありませんが、課長さんのいう「若いくせに生意

気だ」という感覚が常に働いていたのだと思います。


トイレ

母屋には課長さんの家族専用のトイレがあったようですが、離れの部分にある二世帯が

用いる二つのトイレがあり、私達はその一つを使用するように言われました。

話し合いで、お子さんのいる女子職員の方と同じトイレを用いることになりましたが、

そのトイレは階下に下りてから廊下の一枚の雨戸を開けて、離れの方に行く渡り廊下を

通って突き当たりにありました。

屋根はありますが廊下は戸外ですので、冬は寒い上に、家内など夜は怖がるのです。

仕方ないので二人でコートを着て階下に下り、一人は雨戸のところで待っていて用を足

すようにしたものですが、寒く、不便なことでした。

トイレの掃除は交代でするのですが、家内は綺麗好きで潔癖ですから念入りにするのは

良いのですが、私の手伝いを期待して日曜日にやるので、バケツで水を運んだり雑巾を

絞ったりと色々手伝わせられました。


お風呂

お風呂はあるにはありましたが、入浴する順番が難しく、しかも男性を優先するしきた

りらしく、それを知らないで、私に声を掛けられた時にたまたま風邪気味でしたので、

家内を入らせたところ、後でお決まりの「若いくせに……。女を先に入れた」と文句が

出ましたのと、掃除当番も煩わしかったので、風呂利用は辞退して、銭湯を利用するこ

とにしました。

二人で一緒に銭湯に行き、私が先に上がって家内を待っていた……南こうせつの神田川

のように……のを思い出します。


その頃の楽しみ

生活の面での不便な事ばかりを書きましたが、若い新婚時代ですので、出来る範囲での

楽しみも色々ありました。

私は生来不精者で、暇さえあれば自宅でゴロゴロしているのが一番好きでしたが、家内

は身体は弱いが外出好きで、休日には外出するのを楽しみにしていました。

知り合いのない大阪での生活で、しかも専業主婦で家庭内に閉じこもっているのですか

ら無理もありません。

私も不精者を通してはいられないので、よく外出をしました。お小遣いも十分にはあり

ませんでしたが、心斎橋筋や道頓堀辺りでのウィンドウ・ショッピングや食事を楽しむ

のは毎度のことでしたが、割合頻繁に京都や奈良にも行きました。

私も家内も神社や仏閣にはそれほど興味はなく、鳩バスのような観光バスで一回りした

だけで十分なのですが、休日くらいは大阪から離れたい気分が働いたのでしょう。

京都で一番気に入った清水寺に行き、そのあと四条河原町辺りでの散策と、発見したお

気に入りの安価で美味しい小料理屋での食事が定番のコースとなりました。

奈良は一通り見物しただけです。

白浜温泉にも一度だけ一泊で行きました。

こうして結構若さを二人だけで楽しんでいた時もあったのです。


そのうちに生来身体が弱い家内がこうした生活に疲れて来たのか、身体の調子が優れな

くなり、微熱が続くような状態になって来たのです。

親元を離れて、しかも馴れない関西での不便な生活から来るストレスとホームシックだ

ったのでしょう。私にはとても心配な状況となって来たのです。
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