2004.4.19

マイ・ホームの顛末@


                                                                   島 健二

昭和23年に大学を卒業して、

安田火災海上保険株式会社(現在の損保ジャパン)に就職し、

独身時代の昭和29年8月までは、親の家から大手町の本社海上部へ通勤していました。

8月に大阪支店海上部へ転勤となったのですが、実はこの時既に10月に結婚すること

が決まっていました。


そこで、取り敢えずは独身寮に入り、社宅入居を希望しました。

10月に挙式、家内を帯同して与えられた社宅で新婚生活を送ることになりました。

新婚生活時代は昭和29年ですから、戦後の混乱、疲弊からは立ち直って来ていました

が、まだまだ乏しい時代で、勿論住宅事情も悪く、与えられた社宅は焼け残った古い、

大きな一軒家を、階下を3世帯に、そして二階を一世帯に区切ったもので、階下三世帯

の母屋に当る部分は、課長クラスの一家4人(夫婦と高校生の男の子、中学生の女の子)

が用いており、離れに当る部分の二部屋には、私と同期入社の夫婦と、小学生のお子さ

んがいる30代の女子職員(ご主人とは死に別れたそうです)が、それぞれ1室づつを

用いていました。


私達は二階で6畳の和室と3畳の次の間に簡単な炊事場が付いた部屋を与えられたので、

恵まれた方でした。

階下の離れ部分に住む2世帯は母屋の台所を使わせてもらっていました。

一軒家を無理に分割したものですから、ガスは母屋の台所にしかありません。

入居に際して二階へもガスをひいてほしい旨を申請しましたが、母屋の課長クラスの小

父さんが、「若いくせに生意気だ」として、「二階で下ごしらえをして、母屋のガスを

使いに降りてきたら良い」と反対したことを聞いて、申請を取り下げ、二階で七輪(昔

用いたコンロです)に炭火で炊事をすることにしました。

家内は台所仕事に馴れていないこともあり、大分苦労をしたようです。

夕食の準備をするのに午後3時ころから取り掛かったそうです。

七輪に炭火を起こすのが一苦労でした。

東京の母に相談して、父が勤務する裁判所の食堂に勤めていた親戚の人に頼んで、使用

済みの割り箸を集めて送ってもらい、先ず新聞紙を丸めて火をつけ、その上に割り箸を

のせて火を起こしてから炭火を起こすという方法をとりました。

朝はそんな暇はないので、五徳の下にアルコールランプをつけて、小さなフライパンで

目玉焼きを作り、トースターでパンを焼きました。

五徳をご存じでしょうか? 火鉢の炭火を利用して、お湯を沸かすのに用いる鉄瓶(鉄

瓶も今は使いませんね、薬缶のようなものです)を乗せるための、灰の中に差し込む足

を持つ鉄製の器具です。


今では想像もつかないような不便な生活でしたが、若さで耐えられたのでしょう。

時には心斎橋や道頓堀辺りの安い食堂で外食をしたりしながら、結構気楽に楽しんでい

た面もありましたが、元来あまり丈夫でない家内には無理だったのでしょう。

体の調子が良くなくなり、微熱が続いたりしたのです。

そんな時に丁度、家内の姉夫婦が神戸に転勤して来ました。

その社宅が須磨にあり、かなり広かったので、同居することになりました。

お蔭で家内の主婦としての生活はグッと楽になり、体の調子もいつの間にか直ってしま

いましたが、もともと依頼心が強い家内が、姉に頼りすぎて主婦としての自立ができな

かった反面もありました。

姉夫婦が東京へ戻った後は、阪神沿線の香枦園にあるアパート住まいをしたり、その後

さらに豊中市郊外の旭ヶ丘に出来た住宅公団団地に入居したりと落ち着かない生活をし

ていました。


昭和34年に東京本社に戻り、取り敢えずは父の住む裁判所公邸に同居して、社宅入居

を申し込みました。

転勤の場合、通常は社宅を与えられるのですが、私の場合、社宅を退去して姉夫婦の家

やアパート、公団団地などに住んでいたので、改めての入居申込みを必要としたのです。

35年に高円寺在の共同社宅へ入居し、38年には新設の西経堂共同社宅へと転居、

そして41年には新中野の共同社宅へ転居とめまぐるしく引越しを繰り返す結婚後十数

年間でした。

世田谷、野沢の父名義の土地200坪には姉夫婦が住む家が1棟だけ建っており、

約100坪ほどの敷地が空き地となっていました。

この土地にはいずれ私が家を建てるという了解が親子、姉兄弟の間で出来ていましたが、

これまではチャンスも資金もなかったわけです。

新中野の社宅にいる間に、社員の持ち家を促進する会社の方針が打ち出され、土地を確

保出来る者には低金利で建築資金を融資する制度が出来て、これに申し込んだところ認

められて融資を受けることが出来ました。

そこで早速マイ・ホームを建設することにしましたが、これがとても厄介なこととなっ

たのです。


初めてマイ・ホームを持てるという希望に燃えて、小規模だが極めて良心的な工務店を

紹介されて建築関係一切を一任しました。

家内の姉夫婦もこの工務店を用いて満足の行く家を建てた実績があったからです。

工務店は期待に応えて良い仕事をしてくれました。

とにかく築後12年間、特に不満もなしに快適に居住できる気に入った家を作ってくれ

たのです。


問題は建築許可、確認に問題があり、建築確認を得られなかったことです。

さきに「紙幣運搬人」の項で、世田谷・野沢の家と土地売却の件で触れましたように、

父は残した約200坪の土地に、将来私が家を建てることを念頭に置いて、当時の建築

条例に合致するように、公道に接触する細長い約50坪に相当する3メートル幅の専用

通路を残したのです。

宅地部分は約200坪もあり、そこに25坪程度の姉夫婦の家が1棟あるだけで、さら

に20坪程度の私の家を建てることは、建ぺい率からも何の問題もないと思われたので

す。工務店も何の問題もないと思い込んで、建築確認申請を提出してどんどん工事を進

めたのは当然で、責めるわけには行きません。

ところが、家が出来上がる頃になって、区役所は「建築確認は下せない」ということを

言い出したのです。


それまで建築確認申請を含めてすべてを工務店に任せていたのですが、工務店から話を

聞いた私は区役所の担当課へ出向きました。

担当課の説明によれば、「さきに家と土地を売却した時点では、公道に接続する3メー

トル幅の専用通路があれば、建築確認が下せたのだが、その後建築条例の改正があった

ため、4メートル幅がなければ新たな建築確認は出来ない」ということでした。

つまり「現在の法規に従えば、建築許可は普通住宅1棟のみ」ということです。

私は当然、さきの売却時に将来のことを考慮に入れて、当時の建築条例に合わせて専用

通路を残したこと、宅地部分は200坪余もあり、もう1棟建坪20坪程度の家を建て

ても建ぺい率上何の問題もない筈ということなどを主張しましたが、どうしても聞き入

れてもらえませんでした。

と云っても「建築確認が下せない」ということで、別に「取り壊し命令」を出すわけで

もなく、「黙認する」という何とも中途半端な裁定でした。

勿論父にも相談しました。父は法律の専門家ですから驚きません。

「建築条例が変わってしまったのなら仕方がない。現行法規に従わざるを得ないだろう。

取り壊し命令が出ないで黙認されるなら、平然と住んでいたら良い。そのうちに遺産相

続の問題が起きるのだから、その時に姉弟で相談して、双方に都合が良いように分割し

て相続すれば良い」と云います。まことにもっともですが、私としては早くすっきりしたいのに

、モグリで立てた家に住んでいるようで、気分が良くありませんでした。


家内は私よりも神経質で、完全主義者でしたから、家そのものは気に入っていたのに、

だんだん嫌うようになって来ました。

「私はモグリの家に住んでいるのよ。私達のマイ・ホームは世間から認められないモグ

リの家なのよ」と云わなくて良いことを友人たちに言うようになって来ました。

マイ・ホームを建てて住んだのが、昭和44年、そして昭和47年に父が亡くなって遺

産相続の問題が起きました。                                           目次へ