2004.3.17
「ぼんさん」の想い出@
島 健二
「りんさま」と「Oさん」そして私の3人は、会社関係の友人としては、人も羨む仲良
しで、何をするにも一緒でした。
職場も同じ海上部門にいた関係もありますが、「りんさま」が会社を休んで、たまたま
連絡がチョッと遅れた時に、「りんさま」の直属の課長が私のところへ来て、『「りん
さま」が出て来ないし、電話連絡もまだないんだが、君知らないか?』と聞かれたくら
いです。一緒に暮らしているわけでもなし、知る筈がありません。
3人では出来ないのが麻雀です。
「3人麻雀」というやり方もありますが、あまり面白くありません。
そこで4人目として、はじめのうちは「ゆのさん」が入っていました。
我々3人の麻雀の腕前がハイ・レベルであったところから、いつも負けていましたが、
この人は割り切った人で、「此処で揉まれて腕を上げ、他で稼ぐんだ」と他に少しレベ
ルの低いグループとも親しくしていて、そちらでは勝ちまくっていたようです。
お互いに転勤やら何やらあって、麻雀の付き合いも同一メンバーで出来なくなった時期
もありました。私も「家庭の事情」からしばらく友達付き合いが出来ませんでした。
後年「ゆのさん」を除く3人が又東京に集結して、私も病身だった家内に先立たれ、一
人暮らしとなった時に、「りんさま」が声を掛けてくれて「おけん(私のこと)を慰め
る会」として定期的に3人で集まることになりました。
「また麻雀をやろうよ」ということになり、そこで4人目として参加して来たのが「ぼ
んさん」です。
「ぼんさん」も海上畑の人で、若い頃にも時々麻雀に加わったことがあります。
この人は私より1年若い大正15年生まれですが、入社は5年も遅れています。
戦時中に陸軍士官学校から職業軍人を目指し、終戦後しばらく故郷の松山で農業に従事
していたが、思い直して東京へ出て、一橋大学の専門部から学部へと進み、卒業後安田
火災に就職したとのことですが、何度聞いてもどうして5年遅れたのかよく分かりませ
ん。どうでもいいことですが……。
「ぼんさん」は、私達3人とはそれぞれに縁があって、私とは同じ時期に4年間、課は
違いましたが同じ大阪支店の海上部に勤務していましたし、東京への転勤も同時で、し
かも同じ課へ配属されて一緒に仕事をした仲です。
「Oさん」とは「ぼんさん」が2度目の大阪支店勤務の時に後任として課長を引き継い
だ仲ですし、その1、2年後には「りんさま」が部長として赴任して、仕事に麻雀にフ
ルに付き合ったということです。
「りんさま」「Oさん」と私の3人は、東京生まれの東京育ちですし、どちらかという
と3人共所謂「お坊ちゃん育ち」と云えるでしょう。
「ぼんさん」は四国の松山育ち、いわば「都会派」と「地方派」で、まるでタイプが違
います。「ぼんさん」は親切な人で、私が家内に先立たれてフリーにはなったものの、
孤独感と精神的、肉体的に中々立ち直れないで落ち込んでいた時期に、真っ先に付き合
ってくれて、週に2、3回の電話と、週1回は一緒に飲みに行ったり、映画を見たりと
励ましてくれた人なので、「おけんを励ます会」の4人目としてすんなりと入って来て
くれたのでしょう。
そう云うのは失礼ですが、私たち3人がかもし出す「都会的雰囲気」に憧れて、仲間に
なりたかったのかも知れません。
「わしは田舎者やから……」「わしは陸士出で、頑丈だけが取り得じゃから……」が口
癖で、腕力や労力を要することなど皆引き受けてくれました。麻雀をしながらしゃべる
時にも、朴訥な伊予弁丸出しで、「ホウかいね」「ホウなんじゃ」という風でした。
麻雀はとても強く、一番勝っていたのではないでしょうか?
私など負けた口惜しさに「このクソ坊主!」と云うと、真面目な顔をして「クソ坊主は
汚いわネ。せめてウ○チ坊主にしてや」と云うのには皆で吹き出してしまいました。
ユーモアのある人です。
ちなみに、「ぼんさん」という呼び名は実家がお寺であることから付いたものです。
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