2004.3.3
大親友「りんさま」急逝
(2000年11月16日)
島 健二
本当にビックリしました。目も耳も疑いました。ショック、一大パニックだったのです。
この日、私は「ぼんさん」、Nさんとの早めの忘年会ということで、飯田橋の「鴻運」
で会食することになっていました。
いつものように飯田橋の駅で夕刻五時半の待ち合わせですが、理髪がしたくて新宿の会
社に行き、理髪が終わってOB談話室で時間をつぶし、頃は良しと席を立とうとした時
に、女子職員が訃報を張りに来ました。
まさかと思うし、見もしないで席を立ち地階に降りました。やはり気になって、地下室
の掲示板を見て目を疑いました。
何と物故者の欄には「りんさま」の名前が記載されています。
何かの間違いで「りんさま」の係累でも亡くなったかと本当に目をこすって良く見ても
物故者は「りんさま」その人。頭が真っ白になりました。
ちょうど一週間前に麻雀したのに……。あんなに元気だったのに……。
とにかくお宅に電話して見ました。出たのは娘さん、やはり嫌な感じがしました。
『もしもし島ですが』
『あ、娘のYです』
『Yさん、本当なの?』
『はい、本当なんです』
『どうして?』
『朝、用事があって私が来て、勿論母もおりましたし、三人で話をしていたら「胃が痛
い」と云うのですが、押さえている場所が胃にしては一寸上なので、「心臓だといけな
いから病院に行きましょう』と私が運転して掛かり付けの義妹の病院に行きました。』
『結局心臓だったのですか?』
『いえ、心電図は異常なし、それじゃ色々検査しましょうと採血している間にガクッと
してしまい、人工呼吸等手を尽くしましたが駄目でした』
『やはり心筋梗塞ですか?』
『心筋梗塞の場合はとても痛みが激しいそうで、苦しみが酷くないところから動脈瘤破
裂ではないかとのことですが、はっきりしたことは解剖しなければ分からないそうです』
『解剖するのですか?』
『いえ、解剖したからって生き返る訳じゃないので、しないことにしました』
私は事態を了解したものの、あまり突然かつ意外な事に実感が沸かず、呆然としたまま
とにかく約束の飯田橋に向かいました。待ち合わせ場所にはNさんが来ていました。
『「りんさま」が亡くなった』と告げた私の顔は血相が変わっていたそうです。
すぐに「ぼんさん」も来ました。彼は既に変事を知っていました。
「りんさま」の奥さんは先ず私に電話をして、留守だったので「ぼんさん」に電話をし
たそうです。奥さんは取り乱していてどうしていいか分からないので、「ぼんさん」が
会社を始め必要な各方面に電話連絡をしたのだそうです。
「ぼんさん」の連絡を受けて張り出された掲示板の訃報を私が会社で見たことになりま
す。『とにかく「Oさん」に連絡を』ということで仙川に電話をしました。
奥さんはもう知っていました。Oさんが現在目黒から仙川に向かっているとのことです。
奥さんは明日から仕事の都合で三、四日出張するので、今晩これから取りあえずお悔み
に行くとのことで、我々はどうしようかと迷っているところにOさんが到着して電話口
にでました。
相談の結果、「ぼんさん」と私は、今夜は遠慮して明日の昼伺って何かお手伝いするこ
とにしようということになり、予定どおり「鴻運」に行くことにしました。
Nさんの場合は「りんさま」とそれほど親しく付き合っていたわけでもなく、また10
年以上も年令が離れていたので、それほどのショックでもないようでしたが、私と「ぼ
んさん」には大変なショック。話題はどうしてもそこへ行ってしまいます。
やっと実感が沸いて来て涙が止まらなくなり、Nさんには気の毒だが忘年会どころでは
なくなってしまいました。とにかくある程度腹拵えをして早々に解散しました。
翌17日新宿で「ぼんさん」と待ち合わせて早昼を済ませ、兄のアドバイスに従ってお
稲荷さんと海苔巻きを6人前程持って弔問に伺いました。
『あまり苦しまなかったから穏やかな顔をしている』と云われてもやはり死に顔を見る
のは悲しいものです。涙を堪えるのがやっとでした。
「ぼんさん」はまめまめしく会社に電話をしました。
会社から手伝いに若手を来させる交渉ですが『OBの葬儀に手伝いは出せない』という
つれない返事です。分からないではないが少し杓子定規のように思えました。
「ぼんさん」は大いに不満かつ憤慨して交渉し、結局OB若手のS、T、Y君達が通夜、
葬儀を手分けして二人づつ来てくれることになりました。
「ぼんさん」は中々タフ・ネゴシエーターです。持参したお稲荷さん等は好評でした。
こんなときは食事どころではないけれど食べないわけにも行きませんし、兄の経験が役
立って喜ばれたのです。この日は午後3時頃までで失礼しました
翌18日は通夜。夕刻「Oさん」、「ぼんさん」と新宿で待ち合わせて、タクシーで行
きました。弔問者の応対を頼まれていましたが、大勢で部屋に入りきれないで帰る方が
多いほどでした。
やはり斎場を借りなければ無理だったと思いましたが、葬儀日程の都合で借りられなか
ったとのことです。「ぼんさん」は先に帰りましたが、「Oさん」と私は少し残ってか
ら帰路につきました。通夜の席ではあまり食べられなかったので、駅前の食堂で食事を
しました。二人ともショックのためかあまり食欲がないし話題もどうしても「りんさま」
のことになってしまいます。
今後の我々の付き合いも「りんさま」宅でのマージャンという媒体がないと仲々成立し
なくなります。一人補充してマージャンをすればいいというものでもなし、カラオケで
は「ぼんさん」が駄目だし……。どうにも名案が浮かびません。
自然に遠ざかることがないように頻繁に連絡を取り合い、取りあえずは飲み会でもしよ
うか、3人だけではつまらないので誰かを誘おうかなどの知恵しか浮かびません。
「Oさん」の奥さんを入れて、『「りんさま」を偲ぶ会』という形でマージャンをする
のも良いが、O夫人が結構忙しいのと、場所も問題で、「りんさま」の奥さんが希望し
ない限り「りんさま」宅では出来ないし、第一「りんさま」の奥さんがあの家を維持出
来るかどうかも分からないと意見が一致しました。
翌19日は葬儀。会社関係の人が大勢来ました。「りんさま」の人徳でしょうか?
葬儀の後火葬場へ。いつものことですが棺が釜の中に入る時が一番悲しいものです。
火葬が済んで「りんさま」宅へ、十日祭(仏式では初七日)が行われた後仕上げの昼食。
これですべてが終わりました。
その後一か月以上経過しましたが、思い出すたびに淋しいのです。
「りんさま」宅のマージャンが私達の付き合いの中心にあったことが分かります。
麻雀だけではありません。思い起こせば昭和23年から52年間私達の交友関係の中心
には4才年長の兄さん格である「りんさま」が常にいました。
温和で誠実そのものの、しかも常に優しくて自己の利害関係を省みずに友人たちを支え
てくれる人格者、会社関係の付き合いと云うことでなく、この人生の生涯の友として、
「Oさん」と私の3人で互いの身の上の人生の苦楽を理解し合った又とない信頼関係が
結べた、かけがえのない人でした。
しかし「りんさま」の急逝は大変に辛いことですが、人生では別れは何時かは避けられ
ないこと、月並みな言い方ですが、ご本人が苦しまなかったことを良かったと割り切ら
なければなるまいと「Oさん」と話したことでした。 目次へ