2003.12.21 
アルバイトと社交ダンス(戦後の学生生活A)


                                                                         島  健二

アルバイトを通じて知り合いとなった大学の大先輩に、東大社交ダンスクラブ(淡青会)の元会員

であったベテランのTさんという方がありまして、この方が、目黒の雅叙園に一室借りて、知り合

いの若者達を誘って、毎週1回社交ダンスのレッスンを開催して丁寧に指導してくださいましたの

で、熱心に通って励んだものです。さらに、このダンスのメンバーが観劇会やら映画鑑賞会などと

他の分野へも発展して幅広くエンジョイしたことでした。


こうしてグループで交際するうちに、個人と個人の交際へ発展するのも自然の成り行きで、何組か

のカップルがめでたくゴールインしました。(私の場合は、機会と相手に恵まれず、後日、ごく平

凡な見合い結婚をしました)


よく遊ぶ反面、皆よく働きました。様々なアルバイト先を求めて、小遣い銭を稼ぐばかりでなく、

家にも生活費を入れて家計を助けたものです。戦時中から勤労動員等で働くことには馴れていまし

たから、皆色々な仕事を見つけて働きました。私も単発的なアルバイトも幾つかしましたが、恒常

的なアルバイトとしては、大学に籍を置きながら、中央郵便局にあった米軍の検閲機関(CCD)

に1年間ほど務めました。手紙を検閲して該当項目に合致すれば翻訳する仕事です。友人と3人で

募集試験を受け、一人は合格しませんでしたが、私ともう一名の友人が合格し、私は翻訳業務(和

文英訳)、友人は会話が得手でしたので、受付業務へと分かれて勤務しました。在日アメリカ進駐

軍が日本国内の様々な情勢や、日本国民の対米感情などを手紙の検閲を通じて把握するための検閲

機関でした。このアルバイトによる給料は、新円で950円でした。我が家の収入は例の500円

制限で、父と兄と合わせて1000円でしたから、私の950円は随分家計を助けたことになりま

す。(もっともお小遣いもかなり使いましたから、950円全部を家計に入れたわけではありませ

ん)


音楽にも随分熱中しました。最も多感な10代を戦時中に過したため、音楽には餓えていました。

何しろ戦時中に聞いたり、歌ったりしたのは軍歌ばかりで、音楽のない日々を送っていましたから…。

軍歌の周辺にもいい歌はありましたし、今でも覚えてはいますが、昔を懐かしんで歌う気にはなれ

ません。友人の中には好んで軍歌を歌う人もいますが、私は厭です。


戦後、アメリカからジャズやポピュラー・ミュージックがどっと入って来ました。私はクラシック

も嫌いではありませんが、じっくりと楽しんだ時期がなく、従って詳しいわけではありませんし、

いわゆる通俗名曲くらいしか知りません。アメリカから入って来たポピュラー・ミュージックは耳

新しく、私にはピッタリ来て夢中になりました。殊にヴォーカルものが大好きで、ナット・キング

・コール、ルイ・アームストロング、ドリス・デイ、パティ・ペイジなど好きな歌手、好きな歌を

聴きまくり、覚えまくりました。いわゆる「テネシー・ワルツ世代」です。


当時は「電蓄」もまだ一般的には手の届かない存在で、高価なものでしたが、どうしても欲しかっ

たので、兄の友人で部品を購入して組み立てるマニアがいましたので、依頼して実費で組み立てて

もらいました。不細工な大型サイズの「電蓄」でしたが、それでもかなり高くついた記憶がありま

す。ただし音質はかなり良いもので満足しました。レコードもドンドン買いました。歌うのも大好

きですし、会話は苦手でも英語は得手でしたので、次々と覚えて、得意になって歌ったものです。

小遣い銭の大半をこうしたことにつぎ込んでいたわけですが、その後レコードからLP、EP、C

Dへと変化したため、今では一枚も残っていません。頭の中に何曲か残っているだけです。


こうしてアルバイトに励み、遅れてやって来た青春時代を楽しんでいる間にも、大学へは時々顔を

出し、講義を聴いたり、レポートを提出したりして残りの「単位」を取り、卒業を迎えます。アル

バイト先のCCDでも真面目に働いていましたし、進級試験も受けてジュニアから一般、そしてシ

ニア・イグザミナーという資格もとりましたので、日本企業への就職を先延ばしして、いわば課長

クラスの指導者として残らないかと遺留を受けましたが、将来を考えて、卒業、日本企業への就職

の道を選んだのです。                                            目次へ