2003.12.15

紙幣運搬人


                                                                         島  健二


終戦後の混乱期に、悪性インフレのもたらす政治不安を回避するためと称して、昭和21年2月

17日に「金融緊急措置令」が発せられ、同月25日実施で、銀行預金等の旧円の封鎖及び新円

への切り替えが行われました。その内容は…、

1.預金の支払停止と封鎖
2.封鎖からの預金支払は世帯主300円、家族1名100円とする
3.給与の支払は500円まで新円、残りは封鎖払いとする…などでした。

翌昭和22年5月に、日本国憲法施行、裁判所法施行、最高裁判所発足がありました。私の父は

大審院部長判事をしていましたが、この改革で最高裁判所の裁判官となることになったのですが

、家庭的にはここに思わぬ落とし穴があったのです。詳しくは記憶していませんが、父がそれま

で勤務していた大審院が閉鎖され、最高裁判所が実際に動き出すまでの約半年間(?)の間父の

俸給が空白(支給されない)となってしまったのです。多少の貯えはあっても前述の預金封鎖で

使えません。さらに、なまじ大きな家に住んでいたため、進駐軍に接収されるかも知れない恐れ

も出て来たのです。


俸給が支給されない間の生活費をまかなうため、また進駐軍に接収される前に家を処分して現金

化し、程々の家を購入して差額を半年間の生活費にあてようということになりました。同じ土地

内の離れ家には姉夫婦が住んでいるため、その家と約200坪の土地、それに公道から引っ込ん

だ土地になるため、将来その200坪の土地に新しい家の建築許可が下りるようにと当時の建築

条例に合わせて、3メートル幅の専用通路(この部分が約50坪)を残して、表側の母屋(建坪

70坪)が建っている約500坪の土地を売りに出したのです。(こんな詳細を敢えて記したの

は、後にその残した土地に私が家を建てることになり、その際に色々な問題が発生したのを、稿

を改めて書きたいと思うからです)


家の買い手を探したところ、東京都が局長クラスの官舎に宛てるために購入するという話になり

ましたが、ここにもう一つ問題がありました。東京都の支払が封鎖旧円でなされることです。父

が色々と専門家に相談したところ、受領した封鎖旧円で株式を購入し、それを即時売却すること

で新円に変えることが出来るということでした。その線で事が進んで、新円35万円が入ること

になりました。その当時は焼け残った家に価値があるので、約500坪の土地は殆ど価値がなか

ったのです。後に、現在区の小公園となっている約100坪を「さらち」として残しておけば良

かったのにと悔やんだことでした。


こうして出来た35万円の現金を誰がどうして受け取りに行くかが重大問題でした。その頃は治

安状況が悪く、金を持っていると分るとスリ、かっぱらい、強奪などを警戒しなければならなか

ったのです。白羽の矢が私に立ちました。22才で若くて体力もあり、動作も俊敏な上に、学生

であることが買われました。学生がそんな大金を持っているとは誰も考えませんし、万一の場合

も俊敏に対処できるということでしょう。私は柄は大きいが胆力も度胸もない気の小さい男です

から、責任を感じて怖くてたまりませんでした。何しろこれから住む家の代金や半年間の生活費

等に宛てる大金なのですから……。


兜町の山一証券を訪ねて大金を受領した時に、改めて恐怖の実感がありました。当時は一番の

高額紙幣が100円札ですからかなりのボリュームになります。学生が持ち歩く書類鞄に入れて

さりげなく持ち、何気ない顔で家路に着きましたが、家に帰り着くまで内心はヒヤヒヤでした。

無事にどうやら世田谷、野沢の家に帰りついた時には、ドッと汗が噴出し、ヘタヘタとなったこ

とを今でも思い出します。もう機会もないでしょうが、こんな大金の運搬は2度とやりたくあり

ません。                                           目次へ