2000.12.3

さつまいも


                                                                     島 健二


軍隊から復員して最初の大仕事はさつまいもの買出しでした。

終戦前後、食糧事情は極度に逼迫していました。主食の配給は1人あたり1日2合3勺だったの

で、現在なら十分な分量と感じるかも知れませんが、当時は現在のようにカロリー豊富なおかず

が食べられるわけではありません。肉も魚も配給制で、何の肉だか魚だか分らないような、動物

の餌にしかならないような物がちょっぴり配給になるわけですし、野菜は質も量も乏しく、野草

や芋のつるまで食べました。これらの配給も遅配がちで、一家の台所を預る主婦たちは、知る辺

を求めて近在の農家を訪ね、着物などと引き換えに僅かな食糧を求めるのにきゅうきゅうとして

いました。主食の配給も遅配するばかりか、米の代わりに麦や粟、稗、ふすま、高粱,玉蜀黍等の

雑穀やさつまいも、じゃがいも等も代用食として配給され、時には砂糖が配給されたこともあっ

たそうです。カロリーはあるかも知れませんが砂糖では主食になりません。おかずが乏しい分だ

け主食に比重がかかるのです。

そんな状況だったところに、終戦後ある程度まとまった分量の米が配給になったそうです。「米

の飯」に餓えていたので、つい手加減を忘れて食べてしまったのは無理もありません。そんな時

に私が復員して来ました。米やメリケン粉等の食料品も多少は背負って復員して来たのですが、

若い食べ盛りの青年が1人増えたので、母が気になって次回配給までの米を計ってみたところ、

1人あたり1日1合1勺ほどしかなく、母は当惑してしまいました。



私が千葉・銚子に住む友人に頼んで配給外のさつまいも10俵を購入してもらい、毎週1回運ぶ

ことにしたのですが、当時の我が家の人員構成は、両親と祖母、兄と私、姉夫婦と姉の義弟(夫

の弟)の8人構成でした。重たい荷物を運ぶのに適格である筈の比較的若手男子のうち姉の夫は

喘息持ち、兄は肺浸潤を患って間もなく、まだ静養中で、私と姉の義弟の2人しかありませんが

、この男は私と同い年の20才、某大学の空手部に所属する筋骨隆々とした健康体なのですが、

言を左右にして協力せず、一緒に運びに行ったのは1回だけでした。その非協力が「食べ物関連

の恨み」となって、その後60年近くになりますが一切付き合っていません。


それは兎も角、仕方がないので私一人で銚子(正確には1駅手前の松岸駅)まで毎回1俵のさつ

まいも運びに毎週通いました。芋1俵は12貫(45kg)ですから大変な労働です。世田谷の

上馬から玉電で渋谷、JRで代々木乗換え御茶ノ水、総武線電車で両国、それから総武線列車で

松岸駅、徒歩で友人の家までが30分、芋を担いでその逆コースですからたっぷり1日掛かりで

す。当時は交通事情も最悪でしたから列車の遅れ、運休はザラでした。1度ですが代々木まで来

たらもう電車がなく、翌朝の始発電車まで代々木駅の地下道で夜を明かして早朝に帰宅したこと

もありました。電話も掛けられなかったので母は心配で寝ずに待っていてくれたとのことでした

。しかも列車は殺人的に混み、松岸駅から乗る時は腰掛けられるのですが、途中の八日市場駅あ

たりから大変な混雑となり、皆が芋を運ぶ客ですから「お願いしまーす」の声と共に各駅ごとに

窓から芋俵が飛込んで来ます。我々先に乗車している者も心得たもので、「ハイヨ」とばかりに

飛込んでくる芋俵を受け止めて手際よく下から積み上げて行きます。そのうちに芋俵は座席の背

もたれの高さを越え、乗客はその芋俵の上に腰を下して網棚につかまったりしています。終着駅

に着くとまた手際よくリレー式で芋俵をホ−ムに降ろし、それぞれ自分の荷物を見分けて粛々と

家路につくのです。


こうして運んださつまいもは蒸かして1人前120匁(450g)の代用食となり、8人の胃袋

へと収まるのですが、不公平がないように母が丁寧に計りました。75才の祖母から20才の私

まで一律に120匁でした。夜になって各自が部屋に引き取った頃、母は薄く切ったさつまいも

をフライパンで焼いたもの若干を私に持って来てくれました。「貴方が一人で労力を提供してく

れているのに、皆と同じに120匁じゃ可哀想だわよネ」と言われて、母の配慮にちょっぴり涙

ぐんで食べる私でした。


こうして45kgのさつまいもは1週間で綺麗になくなります。私の労力と母の配慮で支えた我

が家の食卓が平和に保たれる間に、次の米の配給があって私の銚子通いは終わりました。都合8

回、9俵のさつまいもを運んだのです。残りの1俵は権利放棄しました。           目次へ