2003.11.20
終戦 (戦中・戦後G) 


                                                                        島  健二

7月1日から8月半ばまで、真夏の炎天下、松本で訓練を受けていた私たちは終戦前日の8月14日に横須賀へ移ることとなりました。この間の1ヶ月半の訓練は勿論キツイものですが、軍事教練で馴れていた私にはそれほど辛いものではありませんでした。むしろ東京とは違い空襲もなく、疎開しているみたいに感じていました。(私が入営した後、東京でも空襲は殆どなかったようですが……)

横須賀へ移る理由が馬鹿げています。「近々アメリカ軍が上陸作戦を展開するが、狙われそうな横須賀地区は海軍だけで陸上の警備が薄いから陸軍が応援に行く」というものです。「模型の銃や擲弾筒で、何の抵抗が出来るか」とバカバカしく思いましたが、「幾分東京に近いからいいや」と考えておとなしく従いました。横須賀へ移ることを、どうやって家族に伝えようかと頭をひねりました。勿論「軍の機密」ですから、手紙や葉書に書くわけには行きません。手紙や葉書は皆検閲されるからです。そこで一計を案じました。父母の住む家の同じ地所内(同番地)に結婚した姉夫婦(高田姓)が住んでいましたので、その「高田様方横田須賀子様」として、文面はさりげなく、「今回そちらへ転勤することになりましたので、近くお目に掛かる機会もあるかと思います」という旨を記しました。差出人は島田健三としたのです。こうすれば何とか判読してくれて、「あア横須賀へ移るのだな」と分かってくれると思ったのです。この葉書を投函するのがまた一苦労でした。通常のルートで出すわけには行かないので、外出(勿論フリーな状態ではありませんが……)の際に、街中で通行人とすれ違う瞬間に隙を見て「お願いします」と渡しました。黙って受け取ってくれて成功した喜びを今でも覚えています。
貨車に載せられて横須賀へ行く途次、中央線から山手線へと入り、新宿から渋谷の辺りを通ったときは正直言って、里心がつきました。

横須賀は田浦小学校が私たちの駐屯地でした。8月15日早朝に田浦に着いて休息する暇もなく、正午に天皇陛下の玉音放送があるということで、9時頃から校庭に整列して正午の放送を待つことになりました。私は「終戦の詔勅だな」と直感的に思いましたが、告げられたのは「戦局厳しき折から、より一層の奮励・努力を要望する陛下のお言葉だろう」とのことでした。

「いよいよ戦争が終わるのか」という期待が胸を弾ませる一方で、「敗戦国日本はどうなるだろう? 軍隊は解散させられ、上層部は処刑されるだろうが、我々一般兵士はどう扱われるだろうか?」などと考えながら、炎天下に整列していましたが、あまりの暑さにバテて来ましたので、一計を案じて突然倒れることにしました。日射病で倒れたように見せたのです。私の思惑通りに後にいた仲間たちが支えてくれ、日陰に運ばれました。日陰で横になりながら玉音放送を迎えたわけですが、放送そのものは雑音が酷くて殆ど聞き取れませんでした。「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び・・・」で無条件降伏であることだけは分りました。しかし、士官、下士官から我々に伝えられたのは、「これは謀略で、アメリカ軍が安心して上陸して来るところを叩くのだ」と翌日からの訓練はより厳しくなりました。「バカバカしい」と思いながら、「今に慌て出すぞ」と堪えていたところ、案の定3日ほどすると慌てだし、「軍人と分ると殺される」と書類を焼いたり、軍服の肩章をはずして捨てたり、みっともない周章狼狽でした。軍隊の規律も何もなくなり、我々新兵の仕返しを恐れて、お世辞を使うやら恥も外聞もないといった振る舞いでした。

どういう策略を講じたのか、復員命令は士官、下士官たちに早く出て、古兵2,3名を含む15名程が残務整理に残されました。
残務整理とは、横須賀地区にある武器・弾薬類を集めて、上陸して来るアメリカ軍に引き渡すというものでした。任務完了後に自動的に復員という虫の良い命令でしたが、軍隊がやるべき最後の仕事ですから、立派に任務を遂行しようと仲間と語らい、一人の脱落者もなくやり遂げたのを誇りに思っています。古兵たちは全く発言力もなく、事実上私が統率者の役割を担っていました。
いよいよ大詰の「武器・弾薬引渡し」です。私としては「仮名手本忠臣蔵」、「城明渡しの場」の大星由良之助のような気持だったと思います。仲間には英語を操れる者が私以外にはなく、アメリカ側との応対は全て私に一任されました。私も英会話は大の苦手でしたが、やむを得ず、あらかじめ英作文をして「私たちは抵抗する意図は毛頭ありません。この地区の武器・弾薬類をすべて集めて、あなた方に安全に引き渡すべく、お待ちしていました」という趣旨の文章を用意しました。
アメリカ軍がやって来ました。手に手に拳銃を構えています。私が応対すべく一歩前に出ると数人が私を取り囲むように拳銃を構えました。残りの米兵たちは仲間たち全員に備えます。私が必死で準備した英文を読み上げたところ、意思が通じて拳銃をスーッと引いてくれた時には、大役を果たした安堵感から思わず涙が滲みました。
その後、何日か掛けて武器・弾薬類引き取りが行われましたが、アメリカの兵士たちともだんだんに馴染んできて、手まね、筆談をも交えて歓談しましたが、アメさん達は私に「そんなに立派な英語が操れるのに、何故シャベれないのか」と不思議がりますので、「日本の英語教育は程度は高いが、読み書きが主体なので会話は苦手な人が多い」と説明しました。

最近「英語教育熱」が高まり、「幼少の頃から英会話を」と云われますが、私は反対です。読み書き主体でもイザとなれば用は足せます。要はしっかりした日本人としての内面だと思います。幼少の時から英会話に励めばペラペラと話せるかも知れませんが、内面がしっかりしていなければ何にもなりません。その時期には日本人としてのアイデンティティの基礎をしっかりと植え付ける方が大切だと考えています。英語教育に熱を入れて日本語をおろそかにすることは、やがては日本固有の文化の衰退、破壊に繋がると懸念するのです。

武器・弾薬引渡しの残務整理期間にこんなこぼれ話があります。軍隊は解散されましたが、私たち十数名は規律を保って烏合の衆とならないために、話し合って衛兵勤務を継続することにしました。駐屯所である小学校校門のそばの小屋に衛兵所を設けて2〜3人が衛兵勤務をしたのです。勿論軍隊のものよりぐっと柔らかい雰囲気でしたが……。通りがかりの人々が気軽に立ち寄って道を訊ねたり、中には治安状況について質問したり、またニュースを提供してくれる人々もいました。アメリカ兵たちもやって来ました。なまりの強い英語で道順を訊ねているらしいのですが、何を言っているのかサッパリ分りません。何度も問い返したところ妙な手まねを交えましたので、ハタと気がつきました。男達の「遊び」の場所への道順を訊ねているのです。そう言えば先程からの分らない言葉は、「geisha house」「sukebe house」だったのかと頷けました。地元出身の者に聞いて道順を書いて説明したところ、途中のある箇所を指差し「no,no MP」(憲兵詰め所があるから拙い」と言うのです。また地元の者に聞いて迂回路を教えてあげると、大層喜んで、「thank you,thank you」と、煙草とチョコレートをドッサリ置いて行きました。これに味を占めて、何度かこの手順を繰り返して煙草やチョコレートをゲットしたことでした。

復員して自宅に帰れたのは10月1日、入営したのが7月1日、丁度3ヶ月で、1ヵ月半が松本での訓練、残る1ヵ月半が横須賀での残務整理でした。
偶然ですが、この10月1日から東京大学の講義が再開され、東大生としての学生生活が始まったのです。                                         目次へ