2003.10.22
東京大空襲 (戦中・戦後E)
 

                                                                    島  健二

昭和20年4月に東京帝国大学経済学部に入学しました。(その時点ではまだ帝国大学だった)一応入学式はありましたが、何しろ終戦を間近に迎える年でしたので、講義は行われておらず、通年動員という形で農作業の手伝いなどに動員されることになりました。私には経済学部の研究室に残らないかという誘いが掛かりましたが、勉強や研究は好きでないので、断って皆と一緒に農村へ行くことにしたのですが、確か一時的に体調が優れず、出発を延ばして自宅で静養していたように記憶しています。この時研究室に残ったならば、或いは経済学者への道が拓けたのかと後日思いましたが、努力家ではない私は、所詮学者には向いていなかったでしょう。こうして四月、五月頃は自宅で待機する日が続いたので、5月25日の東京大空襲の晩には自宅にいて、貴重な体験をすることになりました。


東京大空襲の体験

昭和18年、19年を主として静岡で過した私は、終戦の年、昭和20年の3月に静高を卒業し、4月には東京帝国大学経済学部に入学しました。静高在学中の20年3月初旬までは例の通年動員で、川崎のいすず自動車の寮にいたのですが、この頃から空襲が激しくなって来ました。それまでは単発的な脅しのような襲来だったのが、かの有名な3月10日の東京大空襲は編隊を組んだB29爆撃機が大挙襲来したのです。被害を受けたのは浅草、本所、深川方面の下町地区で、死傷者12万以上、被災家屋27万弱と伝えられています。
私共は遠く離れた世田谷、野沢に住んでいましたので、この日の被害の実態は分りませんが、鳴り響く空襲警報や、大挙襲来する爆撃機が上空を通過する様子、被害を受けた地域が炎上する真っ赤な空などを見て、恐怖におののいたことを覚えています。私もその四五日前に野沢の自宅に戻って来ていたので、家族達と一緒に体験したわけです。
その後4月13,14日には城東、城北地区、15日には城南地区が空襲を受けてそれぞれ相当な被害をうけました。
私共が住む世田谷方面が被害を受けたのは、5月25日でした。その前日の5月24日にも比較的に近い、蒲田方面がやられて、怖かったのを覚えていますが、確認はしていません。

25日にも空襲警報が鳴って間もなく、南東方面の空が真っ赤になりました。「また蒲田か?」と叫びあったのを記憶しています。私は怖がりで庭に造った防空壕に入っていましたが、兄は悪く言えば野次馬的で、状況を確かめたがる性格で、屋根に上って南東の空を見ていました。「もう危ないから防空壕に入りなさい」と言う父の声に、兄が屋根から下りて防空壕に入った途端でした。シャーッという豪雨のような音がしたと思ったら大量の焼夷弾が落ちて来てその一発が我が家に落ちたのです。「落ちたーッ」と兄が叫んで飛び出し、続いて私も飛び出しましたが、慌てていたのか二人とも転んでしまいました。後から飛び出した父が一番早く駆けつけて、押入れに落ちて燃えていた焼夷弾を手掴みで庭へ放り出しましたが、押入れの中は火の海で、柱から天井へと燃え盛っていました。3人で貯水槽からバケツで水を運んで消火に努めましたが、私が掛けた水は天井まで届くので、火勢が衰えますが、父と兄の水は届かないので私が水を汲みに行く間にまた火が燃え盛ります。もう駄目かと思った時に様子を見ていた母が「お父さんと純ちゃん(兄)は水を運んで、お健さん(私)は此処で受け取って水を掛けて!」と命令しました。適切な指示で火勢が衰えたところを、兄がくすぶる天井板を鳶口で落として、火は消えました。「手掴みで焼夷弾を放り出した父といい、消火に適切な指示を出した母といい、やはり年長者はしっかりしている、血気盛んな若者は慌ててばかりでダメだな」と後に兄と二人で反省した次第です。

焼夷弾は36発が1パックになっていて、広がりながら落ちて来たはずれの一発がたまたま我が家に落ちたわけです。残りの35発は三軒茶屋寄りの隣地に落ちて、たちまちに火の海でした。我が家との間には同じ敷地内に元隠居所があり、当時は姉夫婦が住んでいましたが、この家は無事でしたが、すぐ隣りが火の海でしたので、我が家のボヤを消し止めた後、駆けつけて類焼しないように夢中で羽目板に水を掛けていて、フト気がつくと火と至近距離で防火活動をしているのに少しも熱くなく、羽目板に掛けた水も乾いていません。観察したところ風向きが反対だったのです。暫く様子を見るうちに隣家は焼けて崩れ落ちました。姉夫婦の家は類焼を免れたのです。「風向きが反対なら、近火も怖くない」がこの時得た教訓です。今でも近くに火事があると、真っ先に風向きを見る習慣が付いています。

また不思議に感じたことは、焼夷弾が一発落ちるまでは怖くて、恐ろしくて防空壕で息をひそめていたのですが、落ちた一発を処理した後は全く恐ろしさを感じないで、もう防空壕には入らず、「アッ○○方面に落ちた」などと平気で観察していました。戦場で弾丸が飛び交っていても怖くないと聞きますが、似たような心理状態でしょうか?
我が家から三軒茶屋寄りは全部焼けました。我が家から駒沢寄りは焼け残りました。本当に運が良かったと思っています。
また運が良かったのは焼夷弾が落ちた押入れの襖が開け放しになっていたことです。先に中野で焼け出されて我が家に身を寄せていた伯母が、嫁の実家を頼って仙台に行く時に荷物を残して、「私の荷物はこれだけしかないから、お宅の荷物を運び出して、余裕があったら、これも運び出してね」と頼まれたのを思い出して、防空壕に避難する直前に運び出し、そのまま襖を開け放しにして置いたので出火が即時に見えたのです。もし襖が閉まっていたなら、落ちた焼夷弾がかなり燃え広がって、襖を焼いて外部まで燃え広がらなければ、出火が分らなかったと思います。
さらに運の良いことには、焼夷弾が屋根を貫いた場所は、ちょうど直前まで兄が屋根に上っていた場所でした。避難するのがちょっと遅れていたらと後でゾッとしたことです。
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