2003.10.8
勤労動員(戦中・戦後D)
島 健二
勤労動員という名目で私達ほど様々な仕事をやらされた者はいないと思います。はじめのうちは勤労奉仕という言葉が使われ、任意性、ボランティア性があったように思いますが、いつの間にか勤労動員という表現に代わってしまい、有無を言わさず強制的に動員されて働かされる形になったようです。学生の本分は学業を学ぶことにある筈ですが、当時は銃後の予備群として、特に男子学生は最も近い将来に軍隊に参加する予備軍として学校教練、軍事教練で鍛え、余暇には体力、知力に溢れた産業戦士予備群として動員され、利用されていたのです。
そういう扱いを受けると不思議なもので、大して勉強家でない私なども僅かに残された本当の余暇には、学生の本分に立ち返り、知識を得たくてむさぼるように読書をしました。系統立てた読書ではなく、手当たり次第の濫読だったと思いますが、自由な時間がない中で本を読みふけったものでした。現在私たちの頭の中にあ
る雑学的知識は、この時代の濫読によって培われたものと思っています。
第四話 勤労動員
高校一年の一学期は一応まともに授業を受けることが出来ました。私は文科乙類(文乙)(註;文甲は英語、文乙はドイツ語、文丙はフランス語をそれぞれ専攻)を選択していましたので、はじめて習うドイツ語には苦労しました。前にも書きましたように、食糧事情は悪く、寮の食事ではとても足りないのでエッセンを求めて街を彷徨い歩く餓えた群でしたし、そこへ集団チフス事件が起き、疑いを受けて隔離されたり、また単発の勤労動員も何回かあったりしたため、まともにドイツ語と取り組む時間が極めて限られていたのです。従ってお恥ずかしい次第ですが、現在まで残存しているドイツ語力は、「野ばら」その他の二三の歌を原語で歌える程度で、少しも身についておりません。
二学期からは高校の授業は停止され、通年動員と称して、野良仕事(田植えも畑も)やトロッコ押しを初めとした土方仕事(静高代表寮歌「地のさざめごと」・・・あまり有名ではない・・・の歌詞ではないが、『道なき道を拓くなり』というような、山の斜面に道路を作る奉仕作業)とか、次から次へと何でもやらされました。 その後は数ヶ所の軍需工場等に分れての通年動員となり、私達のクラスは、川崎のいすず自動車で軍用トラックの後部車輪軸(リヤ・アクセル・ケーシング)を削るという旋盤工の仕事をさせられることになりました。若くて飲み込みの早い年頃の産業予備群でしたから、素材を削るバイトという工具を原材料から削り出して歯をつけるという、ベテラン工員のわざまでも習得したほど役に立ったものです。後年、この頃の昔話を会社の若い世代の人たちにしましたところ、「島さんの作った後部車輪軸をつけた軍用トラックは真っ直ぐ走れたかな? 日本は戦争に負けたわけだ」と言った口の悪い奴がいました。
時期的に前後しますが、静岡県にある日本軽金属蒲原工場に勤労奉仕に行ったときは、アルミニウムの原料のアルミナを取り扱う仕事をさせられました。アルミナというのは真っ白な粉なのですが、あまりに細かい微粒子なので、まるで液体のようでした。容器に入ったアルミナに手を入れた感触も液体の中に手を入れたようですし、容器を動かすと波を打ちます。 こんなアルミナを取り扱う仕事が終わって風呂に入ったときに身体中が真っ白なのにびっくりしました。アルミナの微粒子はマスク越しに鼻の穴に侵入し鼻糞を真っ白にし、さらに下着を通して身体の隅々まで侵入して下腹部までを真っ白にしていたのです。
このようにして様々な艱難辛苦に耐え続けて来た青春時代であったにかかわらず、お互いに素直に人格形成し、良き社会人、家庭人として社会に貢献し、そして今や良き老年期を迎えている私達は本当に涙ぐましいほど健気な、かつ純粋な世代であると自負しようではありませんか。 ご同輩! 目次へ