2003.9.6
部活 (戦中・戦後C)

                                                                                                                                       島   健二

私達の時代には「部活」という言葉はありませんでした。何しろ中学時代も高校時代も学校教練が主体となっていましたし、それも年々強化される一方でしたので、球技等のスポーツはフリーな時間帯に自発的にやるしかなく、それもだんだん敵性スポーツと見られるようになりました。例えば野球などでも、「ストライク」「ボール」を「須打球」「暴塁」と呼称することになり、また「セーフ」「アウト」は 「ヨシ」「ダメ」と呼ばせるのですから話になりません。私は野球が大好きで、野球選手になるのを夢見ていたのですが、とても叶わぬ夢でした。ちなみに父は一高vs三高対抗戦の全盛時代に一高の野球選手をしていたとかで、子供の時に父からキャッチボールやバッティングの手ほどきをしてもらったものです。
 そんなわけで、静高時代には入りたい「野球部」がないので、「部活」として選択したのは「航空部」でした。


第三話 グライダー訓練

何しろ60年前のことで記憶が定かではありません。
 今で云う部活として、航空部に正式に入部した覚えもないのですが、合宿してグライダー訓練を受けたことは断片的ですが良く覚えています。それは昭和19年だった筈ですが、三保の松原の近くの海岸に合宿に行ったと記憶しています。 参加した理由はお粗末なもので、文科系統を選んだわけですから特に航空機それ自体の構造等に興味を持っていたわけではなく、また当時は口に出して言えませんでしたが軍隊に嫌悪感を持っていましたので、勿論飛行兵になろうなぞという考えもありませんでした。あの頃は戦時下であるためスポーツは殆どできないので、当時許されるスポーツ、柔道部、剣道部、戦場運動部(陸上競技の変形)、航空部等の範囲内で幾分カッコイイものとして航空部のグライダー飛行に興味を持ったに過ぎないのです。
運動神経はそこそこありましたが特に体力的に優れていたわけではなく、むしろ軟弱な学生で、厳しい訓練は苦手でしたが、グライダーで飛びたいという興味だけで努力しました。何回も何回も綱をひいた後にようやく順番が回って来て搭乗できる楽しみでした。
 あっという間に終わってしまう地上滑走を何回かやった後に、確か1メートル直線滑行、2メートル、そして3メートル直線滑行へと進んだように記憶しています。私は比較的に感が良い方なので割合順調にマスターし、上達したように思います。
 3メートル直線滑行のときでしたが、思いがけないハプニングが起きたのです。強い向かい風にあおられたのか、操縦桿の引き方が強すぎたのか、あれよあれよという間に機体が上昇して、10メートル以上も上がってしまいました。
 先輩たちが慌てて騒ぎだし、『押さえろ、押さえろ!』と叫ぶ声が聞こえました。私としては少しも慌てておらず、また高く上がりすぎたことについての恐怖感も全くなく、良い気分で下界を見ていたように記憶しています。とにかく高度を下げ接地も上々の出来で、無事に着陸しました。失敗をしたというような反省は少しもなく、落ちついていたこと、技術的にうまく処置できたと自慢したいような気分であったように思います。
 その後の記憶は全くないのですが、訓練が終わってしまったのか、あるいは印象に残るようなことがなかったのかのいずれかでしょう。
グライダー訓練についての思い出はこれくらいしか残っていません。奇妙に記憶の彼方に霞んでしまっています。                                   
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