2003.9.3
酷い青春時代(戦中・戦後B)
島 健二
とにかく酷い時代でした。こんなに惨めな旧制高校生活を送ったのは私達の年次だけだと思います。何しろ入学のときのお達しが戦闘服着用です。これはあまり遵守する者がなく、弊衣破帽を真似た旧制高校生らしい服装をする者が多かったのですが、朴歯の下駄は許されず、せいぜい草履履き、腰の手拭いもおおっぴらには許されない状勢でした。先ず先輩や後輩とは異なり、私達は戦時短縮という名のもとに2年間の高校生活でした。良いか悪いかは別にして、大学に進むときは入学試験がなく、内申書による推薦入学でした。これは後年『東大無試験入学の秀才だぞ』とはったりに用いさせてもらったこともありますが、本当にはされず、「戦争末期で入学試験が行われなかったのでしょう」とバレてしまいました。
極端な食料難時代で、寮の食事では足りずにエッセン求めて市内を徘徊したものでした。町の人々は我々静高生を可愛がってくれて、お店を閉めてからこっそりと食べさせてくれるような有り難いお店もあったのですが、若い胃袋はキリがなく、絶えず食料を求めて彷徨う飢えた群れでした。
第二話 蜜柑山事件(私が蜜柑を食べない理由)
酷い食糧難時代でしたが、静岡は蜜柑の産地なので蜜柑だけは十分に食べられました。ところが、そこで起きたのが蜜柑山事件です。単なる学生のいたずらと、一種の冒険心から起きた事件に過ぎなかったものが、時代が悪かったため窃盗事件として取り扱われることになってしまったのです。
現行犯で捕まって学校当局に突き出され、停学処分を受けることとなったM.Y.両君のために署名運動が行われるなど大騒ぎになってしまいました。私自身は熱血に燃える旧制高校生というタイプではなく、どちらかと言えば東京育ちに有りがちな冷めたクールなタイプで、しかも全般的には軟らかいことが好きな癖に、父が裁判官ということから部分的には普通以上に堅く、潔癖なところがありました。大してお金もかからないで蜜柑は買えるのに、夜陰に紛れて皆が蜜柑山に出掛けて蜜柑をとって来ることで倒錯したヒロイズムに酔い、窃盗に似た行為をすることには批判的で、一度も同行したことはなく『こんなことはやめろ、窃盗行為じゃないか』と言い続けていたときにあの事件が起こってしまったのです。
逃げ遅れて捕まった両君は善意の人で、初めて参加したためと、やや要領が悪く、動作が鈍かっただけで同情できるのですが、あの時行われた両君救済のための署名運動は、バンカラな行為に酔う高校生が好んで行う血判をするという大時代なもので、私には全く気に入りませんでした。私は歌舞伎を愛好していましたが、血判や切腹などというものは歌舞伎の世界だけで沢山だという考え方でした。しかもこの件に関して私は終始反対して来ており、難を逃れた常習犯たちが署名運動の中心になっていることも気に入らず、私は署名・血判を拒みました。そのために私は寮内で孤立してしまった不愉快な想い出があります。このときの数々の嫌な想い出が甦るためか、又は一生かかって食べるくらいの分量の蜜柑を、極めて短いこの期間に食べてしまったためなのか分りませんが、私はその後は蜜柑が嫌いになり一切食べないようになっ
てしまったのは不思議なことです。 目次へ