2003.8.14
ちょっと休憩ーーー旧制高校の学生生活


                                                                   島  健二

前回、私が旧制高校へ入学した頃について記した文章を見て、敬愛する私の相棒、増田さんが貴重なアドバイスを寄せられました。「昔の旧制高校の学生生活については、我々70代の者にはピンと来るが、60代、50代の若い世代は説明がないと分らないよ」ということでした。「なるほど、これは説明が必要だ」と思いましたので、「ちょっと休憩」で「旧制高校の学生生活」について説明することに致します。

現在の学制は、六、三、三、四となっていますが、旧制では六、五、三、三でした。新制の小、中、高12年に比べて、旧制では小、中、高14年と2年長く、その代わりに大学が1年短くなっていました。従って旧制高校は新制高校よりも少し上にあり、いわば新制大学の教養課程に当たる位置にあります。
旧制高校は、中等教育を終えて(当時は旧制中学等の中等学校を卒業して社会人となる者が大多数でした)最高学府と呼ばれた北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、九州の7帝国大学へ進学するための教養課程としての存在であり、原則として旧制高校へ進学しなければ帝国大学へは進めないので、その入学試験は「試験地獄」と呼ばれる難関でした。これに対応するのが早稲田大学、慶応大学等に代表される有名大学の大学予科でした。
従って、難関を突破してこれらの高校又は大学予科に進学することは、将来社会の中枢部で活躍することを約束されたエリート・コースと考えられていたわけです。早稲田、慶応等の有名大学は東京その他の大都会に集中していましたが、旧制高校は地方都市に分散していました。ナンバースクールと呼ばれた数字がつく高校は、一高(東京)二高(仙台)三高(京都)四高(金沢)五高(熊本)六高(岡山)七高(鹿児島)八高(名古屋)という具合です。

その他地方都市名を冠した高校が幾つかありました。私が入学した静岡高校もその一つですが、浦和、水戸、松本、新潟、あるいは弘前、山形、山口、松江、佐賀等々です。これらの高校はいずれも戦後、昭和23年2月の閣議決定による学制改革で出現した地方新制大学のコアとなっていますが、高校としては新制高校にとって代わられて消滅してしまいました。国立高校の他に、大都市には公立、私立の旧制高校もありました。(東京の府立、武蔵、成渓、成城等、関西の浪速、甲南等) これらの旧制高校はそれぞれ歴史もあり、伝統もありましたが、上位大学への合格率による格付けがあったのも現在と同様でした。それぞれの好みと価値観に基づいて全国各地から学生が集まって来るために、各高校は寮制度を採用しているのが特徴でした。この学生寮は単なる下宿ではなく、自治寮として、学生の自治を認めた教育の場でもありました。教養課程といっても定められた教科課程だけではなく、学生たちは自主的に哲学書を読み、文学書を読み、議論を戦わせ、また時としては、高歌放吟して天下、国家を論じ、互いに切磋琢磨して、人格を形成して行く場だったのです。気宇壮大に海外への雄飛等をも論じたことから、軍国主義、侵略主義の温床でもあるかのように誤解されたのが、学制改革により存続されなくなった一因かも知れませんが、極めて精神的なもので、観念上の議論にしか過ぎなかったように思います。私達経験者が旧制高校の廃絶を惜しんでやまない所以です。

貫一・お宮の「金色夜叉」に見るように、高校生たちは「蛮から」な気風を好み、弊衣破帽にマントを羽織り、もしくは和服に袴姿、腰には手拭をぶら下げ、朴歯(ほうば)の下駄をはいて市中を闊歩します。女性たちはそんな高校生に憧れて彼等に淡い想いを寄せ、高校生はその地方のホープとしてモテモテだったようです。私達の時代は何分にも時代が悪く(昭和18、19年)モテモテとは行きませんでしたが、それでも静岡の人々は我々静高生にとても親切だったことを思い出し、感謝しています。

当時の学制は複雑で、これまでに記した他に中等学校に相当する商業学校、工業学校、実業学校等から実社会へ進む人たちもいましたし、さらに高等商業学校、高等工業学校等の専門学校に進んでから実社会に出る者もいました。また例外的には大学予科、専門学校の修了生を受け入れる帝国大学もあったりしました。(戦後東京大学学長となった茅 誠司氏の履歴はこの例) すべての例を羅列していたらキリがないので、この辺で省略しますが、いずれにしても、こうした時代背景、旧制高校のあり方などを念頭に置かれて、私の拙い想い出話をお読みいただけたら幸いです。                                   目次へ