2003.7.30
旧制高校入学(戦中・戦後A)

                                                                 島  健二

私は大正14年生まれですので、昭和の年数が私の満年令となります。従って、昭和12年日支事変の勃発から昭和16年太平洋戦争の勃発、昭和20年の終戦までを戦中としますと、12才から20才までの少年後期、青春時代のすべてを戦中に過したこととなります。
若い時ですから、それなりに楽しく、また辛く過した想い出がありますが、年数の経過と共に、想い出は美化されるものらしく、辛かった想い出はだんだん遠い彼方に霞んで行ってしまい、当時経験した様々なことがすべて懐かしい想い出として残り、辛さは消えてしまっています。
戦時色がだんだん深まって行ったとはいえ、私達の日常生活は昭和17年頃まではそんなに逼迫したものではありませんでした。従ってこの時期の想い出としては、特別なものは何もなく、学校教練が次第に強化されて苦しくかつ厭だったこと以外には特筆すべきことはありません。ただこれも考え様によれば、ひ弱だった私が次第に逞しく成長するのに役立ったのかも知れません。日常生活が急速に逼迫して行ったのは昭和18年頃からだと思います。
その年昭和18年4月に、私は旧制静岡高等学校へ入学しました。初めて親元を離れ、東京を離れて地方都市での寮生活を経験することになったのです。私にとっては、時代の劇的な変化と生活環境の変化が同時に到来したわけですから、戦時中から戦後間もなくの想い出が、この数年間に凝縮されていることになります。
その幾つかについて、以前に記した文章をご紹介しながら振り返って見たいと思います。


第一話 運がつく話

古い話ですが、私は昭和18年4月に旧制静岡高等学校に入学しました。親元を離れて初めての寮生活を送るようになったわけです。色々なことを経験しましたが、その頃に起きた事件をご披露したいと思います。
生まれて初めて学ぶドイツ語に親しむ間もなしに起ったのがチフス事件でした。寮生の中から何人かのチフス患者が出て即刻入院させられた時のことです。
私はこの時にたまたま、風邪をひいて熱を出していたために、入院とまでは行きませんでしたが、疑いを受けて寮内の静養室という1室に隔離されてしまいました。同じような仲間は6人いました。結果的にはみな単なる風邪で、3日も経過したら全員元気になってしまったのですが、一旦疑いを受けた以上は無罪放免というわけには行かず、週に1回の検便と血液検査を3回クリアしなければ放免してもらえないとのことで、なんと3週間もこの静養室に閉じ込められる羽目となってしまったのです。このブランクがドイツ語の力が付かなかった原因というのは言い訳です。
それはともあれ、最後の3回目の「検便」の時の話です。起床して排便を済ませた直後に「検便」との知らせがあったのです。6人の仲間達は各自トイレにこもって懸命の努力をしたのですが、一度済ませた後だけに大変な「難産」でした。『出た。出た。』と歓喜の声を挙げて1人去り、2人去りして、とうとう私を含む2人が残ってしまったのです。私は力を振り絞って頑張った末に少量の排出に成功しました。『やれ嬉しや』と容器にとり、残部を捨てようとした時に隣室から悲痛な声があり、『どうしても出ないから分けて貰えないか』とのたまわれた御仁がいたのです。「便」を提出しなければ放免がまた1週間延ばされるためで、その気持ちは分かりますが、当時私は軽度の「痔主」であり、しかも目一杯に頑張ったために少量ではあるが出血していました。血便ではありませんが排出した「便」に血が付着していたのです。くだんの御仁に『これでも良いか』と問うたところ、しばらく躊躇した後に彼が云うには『チフスと言われたらお前のせいだぞ』とのこと。貴重なる「雲古」を無償で分譲して貰いながら何たる言い草であろうか?
『厭なら止めとけ』と言うと、『それでいいから頼む』と悲痛な声でのたまうので、勿体を付けて分けてやったのです。彼氏の名誉のために名前は伏せることにしますが、結果としてはめでたく両名ともご赦免されることになって、ちょうど60年経った現在でもお互いに元気で生きているのは運がついたのでしょう。滅多に経験することが出来ない体験だったと思っています。そこはかとなく臭いが立ちのぼって来るようなお話で失礼致しました。
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