2003.7.17
少年後期・青春時代 (戦中・戦後@)
島 健二
昭和13年に東京府立第六中学校(六中、現在の新宿高校)へ入学しました。六中は、当時有数の進学校として知られ、しかも軍関係の学校への進学が多いことで知られていました。当時の中学校は5年制でしたが、先ず2年生の時に陸軍幼年学校への転学がありますし、又少年飛行兵(有名な霞ヶ浦の海軍飛行予科練習生ーー予科練です)への転出もありました。4年生の時には上級学校(旧制高校、大学予科、陸軍士官学校、海軍兵学校等)受験があり、相当数の学生が4年終了の時点で進学します。このため、1学年6クラスだった学級編成が、5年生の時には5学級編成に減りました。
5年卒業の時点では残る殆ど全員が上級学校へと進学しました。
私は軍関係の学校に転入、進学する気は全くなく、ひたすら旧制高校の受験を目指しました。といっても懸命に受験勉強したという意味ではなく、方向性を選んだという意味です。
時節柄、学校教練という教科種目があり、陸軍の配属将校がいてかなりシゴカレました。六中は新宿御苑の一角にありましたので、鉄砲を担いで代々木練兵場や戸山原練兵場までの往復行進なぞ日常茶飯事でした。学校教練は、年を追って時間数が増えましたし、野営と称して習志野や富士、軽井沢などの練兵場への宿泊訓練もありました。
昭和16年に大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発、第二次世界大戦へと進んで行きます。このような情勢下で、軍国主義をよしとしない考え方を持つ我々若者はどのように考え、どのように行動していたかを振り返ってみました。それぞれの考え方や行動があったと思いますが、私の周辺では意外なほど平静に受け止めていました。時代の趨勢というものは、個人個人の力ではどうにもならないということでしょう。戦争には勿論反対の気持を持っていましたが、独りで反抗してみてもどうしようもありません。当時は徴兵制度がありましたから、近いうちにいずれは軍隊に参加しなければならないのですが、これとて逃れようとしても徴兵忌避の罪に問われます。その時に戦争が続いていれば武器を持って戦わざるを得ないのです。それが社会情勢であり、巡り合わせだと自分で自分を納得させる他ありません。戦うインセンティブとしては、愛する家族を守るために戦うのが我々若者の義務だと自分に言い聞かせていたのです。文科系学生の徴兵猶予が廃止されて、20才になれば入営しなければならないようになりました。友人たちの中には猶予を求めて文科系でありながら、医大への進学をした人たちもいましたが(戦後、文科系に転学)、私には姑息な手段に思えて、潔く運命に任せる気持ちでいました。
この時期に習得したことと云えば、厳しい生活環境(食糧を始めとする物資不足、戦時下の各種統制、学校教練等のストレス、勤労動員等の慣れない過酷な労働等)に耐え、かつ創意工夫で乗り越えること、戦争や徴兵という避け難い大事について割り切った自己犠牲の精神でしょうか?
自己犠牲については、先に述べたように「愛する家族を守るため」と考えましたが、「国家のため」という気持もありました。軍部に引きずられて戦争という誤った選択をした国家指導者達への批判はありましたが、国を愛する気持はありましたし、米英を中心とする連合国側の過酷な経済封鎖等も知っていたので「国家のため」に一つの歯車として戦う気持にもなれたのでしょう。
ただし戦うといってもあくまで概念上の問題で、実際に戦場で殺し合いをする覚悟が出来ていたとは思えません。逃れられぬ恐ろしい現実を観念化して、自分の気持をヒロイックな自己陶酔に追い込むことで、恐怖から逃れようとしていたのでしょう。実際の戦闘を経験するハメになったらどうなっていたでしょうか?
戦場へと赴く際の凡夫の気持とはこんなものではないでしょうか? どのように動機付けするかは人によって異なるかも知れませんが、……。しかし、ヒロイックな自己陶酔に過ぎなくても、自己犠牲の精神は近時横行しているジコチューと比べれば尊い精神だと思っています。
別に天皇制に反対なわけでもありませんが、「天皇陛下のために戦う」という気持は全くありませんでした。 目次へ