2003.6.14
少年時代
(2・26事件、日支事変勃発など)
                                                                                                                                               島 健二さんより

私が5才になった秋(昭和5年)、世田谷区の野沢へ引っ越しました。出生の地、東中野での想い出は、前回記した「病院通い・・・カルメン」くらいしか記憶にありませんので、私の実質的な「想い出の記」はここからスタートするのです。
年譜的には、昭和6年満州事変、昭和7年5・15と続くわけですが、何か大変な出来事が起きた程度の記憶しかありません。さらには、和服の女性が下穿きを着けるようになったキッカケとして著名な昭和7年暮の白木屋デパートの火事と続きます。
小学校は池袋の豊島師範付属小学校に入りました。東中野時代に、教育熱心な父方の伯母に勧められて兄が入っていたからです。当時小学1年生が世田谷の野沢から池袋まで通学するのは大変でした。現在の田園都市線・溝口駅からJR渋谷駅経由で麻布の天現寺橋駅までを結んでいた玉電(玉川線)と呼ばれたチンチン電車の上馬駅(現在の環七通りと国道246の上馬交差点)から電車に乗って、渋谷駅でJRに乗り換えて池袋駅へ行くのですから親達は心配で、結局1年間は祖母が付き添って通うことになりました。良家のお坊ちゃまですので……。後に考えますと、兄とは5年違いなので、兄は6年生として在学していたのですから、祖母が付き添わなくても兄と一緒に通学すれば良かったように思いますが、その辺はどうだったのか兄も私も覚えていません。
今でも学友たちに「毎日付き添いが付いていたのはキミとN君だけだね」と冷やかされています。昭和8年12月には皇太子さま(現在の天皇陛下)がお生まれになり、日本国中慶祝ムードとなりました。次のような「皇太子さまお生まれなった」という歌が歌われたのを覚えています。
 「日の出だ 日の出に 鳴った鳴った ポーポー サイレン サイレン ランラン 
    チンゴン  夜明けの鐘まで 天皇陛下お慶び みんな みんな かしわで 嬉しいな 
    母さん  皇太子さま お生まれなった」
大事件で一番印象に残っているのが昭和11年の2・26事件です。陸軍の一部の将校達がクーデターを起こし、当時の岡田内閣の大臣達が襲われて、殺されたりした事件で、宮城乗っ取り計画まであったといいます。学校が昼で閉校され、先生が理由は言わずに「大事件が起きたから寄り道をしたりしないで真っ直ぐに帰宅しなさい」と言われました。言われた通り一心に帰宅を急ぎましたが、その日は大雪で、玉電の三宿駅まで来ると大雪のため路面電車の玉電は不通となってしまいました。仕方なくベソをかきながら雪道を徒歩で必死に歩きました。三軒茶屋駅の近くまで来た時に、心配して迎えに来た父とバッタリ出合ってホッとしたのを覚えています。父は裁判官でしたので一日おきに宅調というのがあって、自宅で調べ物をしていたのだと思います。過保護だったお坊ちゃまの怖い体験の一つです。この2・26事件で、「兵に告ぐ……」とクーデターを起こした兵たちに投降を呼びかけたのは山本アナウンサーだったと記憶しています。テレビのない時代ですからラジオだけが伝達手段でした。ちなみにラジオは私と同い年、つまり大正14年放送開始です。
 2・26事件の起きた年、昭和11年には、有名な阿部定事件や、ベルリン・オリンピックなどがあり、200メートル女子平泳ぎで日本の前畑選手が優勝し、河西アナウンサーの「前畑ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、…… 勝った、勝った、勝った、勝った」と連呼した実況放送は、あまりにも有名です。
一方、この間世の中は次第に戦時色を強め、昭和12年、日支事変勃発となったのです。
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