2003.6.3

                                                        島 健二さんより

私は大正14年(1925年)9月15日、東京府豊多摩郡中野町大字中野1698番地(現在の東中野近辺)3人姉弟の末子(次男)として生まれました。
この日はお祭り。父は姉と兄を連れて祭り見物に行っている留守中に母が産気づいたので、祖母が大慌てで呼びに行ったと聞いています。
父は極めて優秀な判事で真面目な人。母は明るく、気立ての良い、聡明な人で、家庭はかなり財産もあり、官吏としては経済的に恵まれた生活でした。幼時の記憶はあいまいで、あまり覚えていませんが、3才くらいの時に腎臓を患った由で、母に連れられて牛込の島病院(親戚ではない、偶然に同姓)という小児科に通ったことだけを覚えています。
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カルメン坊やの宿願達成

                
 2000年9月16日に練馬文化センター小ホールで開催された、シルバーフェスタ・イン・向山。シルバーヴィラ交響楽団の演奏として、『カルメン組曲』が演奏され、ご好評を博しました。(つもりでおります) 実はこれには私のウン十年来の宿願が込められていたのです。

私は幼時(三歳の頃)に腎臓を患い、母に連れられて病院通いをしました。今でも病院嫌いの私ですので母はなだめすかすのに苦労をしたそうです。 自宅で安静に寝かせておくのも一苦労で、パン屋さんに頼んで色々な動物の形のパンを焼いてもらったり、音楽を聞かせたり、母が工夫をしてくれたことを覚えています。フランスに留学していた父が持ちかえったレコードの中に、オペラのカルメンがありました。私はこれが一番のお気に入りで、曲に合わせてニコニコしながら手足を動かし、そのうちにスヤスヤと眠ったそうで、母は私に『カルメン坊や』というあだ名を付けたのだそうです。 そんなことから私の脳裏には、他のどの曲よりもとりわけ『カルメン』の中の色々なメロディーが焼き付いているのです。 
小学生の頃と思いますが、私の姉がピアノを習っていまして先生がよく見えました。
お稽古が終わった後で私が見様見真似でピアノを弾いて見た時、先生が『弟さんは筋が良さそうなのでお習いになったら・・・』とお勧め頂きました。当時は時節柄(昭和十年頃)『男の子がピアノなんて・・・』と言われそうな時代でしたので、本当はとても習いたいのに、『嫌だ嫌だ』と逃げ回り、チャンスを失ってしまいました。音楽は大好きなので、『ピアノが弾けたらなア』と後に何度も思ったことです。自己流でハーモニカを吹いたり、マンドリン、ウクレレを試みたこともありますが、本格的に勉強したものは何もありません。でもいつか何らかの形で、『カルメン』の演奏に参加したい気持ちがずっと胸の中に膨らんで来たのです。

昨年の『学芸会』でキーボードを担当して猛練習の末『ダニューブ川の漣』他の演奏が出来た時は本当に嬉しく、再び『カルメン』演奏の宿願が猛然と燃え上がったのです。正月休みに自室にキーボードを運び入れ脳裏にある『カルメン』からトランペットのイントロと『闘牛士の歌』、『ハバネラ』を音を確かめながら五線紙に写して自分なりにアレンジし、それを相沢、速見両先生にアレンジし直して頂いて『カルメン組曲』ができたのです。シルバー交響楽団の仲間の皆様を巻き込んで練習に練習を重ねて遂に発表できたのは、老カルメン坊やにとってウン十年来の宿願達成なのでした。バンザイ!
これは私の生涯の思い出です。協力を頂いた皆様方に心から御礼を申し上げる次第です。
本当に有り難うございました。                    目次へ