2016.12.5
いじめの問題




学校におけるいじめがなくなりません。

しかし私が小学生だった昔もいじめがなかったわけではありません。もちろん私の狭い経験だけの話です。


いじめは確かにありました。

しかしあの時代は軍国主義時代。卑怯者といわれることは最大の恥でした。

弱い者いじめは良くない。それは卑怯な行いだという考え方がすべての者の心の根底にありました。

勉強のできないもの。 体力のないもの。 臆病者。 簡単に仲間を裏切るもの。

これらは軽蔑の対象になりました。

しかし軽蔑の対象となった人を公然と孤立させ、一部の人間が村八分的に集中攻撃したら、逆に非難され

ました。それは弱い者いじめだ、卑怯な行いだという別の軽蔑の対象になったからです。


現代は卑怯な行いだという概念が消えていると思います。

昔が全てよかったというつもりはありません。しかし敗者の美しさ、敗者に対する同情、共感の心がないのは、

ほめられたことではないと思うのです。

前の戦争中、捕虜を見た女性が「おかわいそうに」と同情したことが大いに非難されました。

しかしその陰で「捕虜に対する憐みの心がないのは、日本人の精神の劣化だ」という議論を聞いたことがあります。

シンガポール陥落に際し山下将軍が無条件降伏イエスかノーかと敵将に迫ったことが称賛されました。

しかし日露戦争の旅順開城に当たり乃木将軍が敵将に取った態度と比べていかがなものかという批判がひそかに

ささやかれました。

軍国少年だった私は勝者が敗者に対し高圧的態度に出るのは当然だと思っていました。

恥ずかしいことです。

明治日本が躍進したのは旧幕府時代の教育がよかったからです。

昭和時代の日本が転落したのは明治生まれの人々の思い上がりが原因でした。

明治生まれの人の気骨という称賛の言葉がありますが、私はこの言葉に疑問を感じています。

気骨の人は旧幕府年代の人。 つぶしたのは明治生まれの人。


主題から脱線してしまいましたが、いじめの根源はここにあると思います。

敗者に対する憐みの心がなくなってしまった。

論語には確か「憐憫の心なきは人にあらざるなり」という言葉があったような気がします。

全てはかつての四書五経(面目ないが私は論語しか読んでいません)を中心とした教育が廃れたことにあると思います。

私は日本の教育を明治以前に戻したいと思うのです。

もう一度四書五経を基礎とする道徳教育をする。

功利的な行動を軽んずる教育が今こそ必要なのではありませんか。
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