2015.4.14
満州国の思い出
寒い北風吹いたとて くじけるような子供じゃないよ 満州育ちの私たち
私が満州の小学校に通ったのは2年生までですから、満州独自の唱歌は少ししか知りません。
当時満州は日本の最先端にいたのかも知れません。
内地は明治時代に作られた制度に閉塞感があり、新天地の満州に革新の気風がみなぎっていたのかも知れません。
満州唱歌としていろいろな歌が作られたという話を数年前にインターネットで知りました。
ピージャン ピージャン ジャンジャラジャン (繰り返し)
高足踊りがジャンジャランのジャン
白髪のお髭がノッポラポのポー
高足踊りは竹馬と違って手を使わず足の下に1本棒があるだけ。長い足で面白い踊りを陽気な曲にあわせて踊るの
です。チンドン屋のようにスポンサーが付いていたのかどうか覚えがありません。
ねんねこ柳の猫の子は なぜなぜ遊びに行かないの 行かないの
小枝の小橋が怖いから みんなでかあさん待ってるの
うろ覚えですが多分満州だけで歌われていた歌だと思います。
当時の満州には夢がありました。少なくとも日本人にとっては。満州には五族協和というスローガンがありました。
五族とは日本、満州、蒙古、朝鮮、漢民族を指していました。 共存共栄ということが盛んにいわれていました。
きれい事だったかどうか知りませんが表向きはそうなっていました。
当時の私は幼かったので、異民族の子供同士の交際はありませんでした。
父の会社の部下であった張義元さんを私たちはチャンセンションと呼ぶようにいわれていました。
父は彼のことをイーワンと呼び捨てにしていました。 彼は私の家の付属家屋に独りで住んでいました。
独身ではなく息子さんが時々遊びに来ていました。私たちは彼と遊ぶことはありませんでした。
張先生は毎度私たち家族のためにギョウザを作ってくれました。彼の作る水ギョウザは美味しいものでした。
私はあのころ焼き餃子があるのを知りませんでした。
焼き餃子は水ギョウザの残り物を処分する方法なのだとは後で知ったことです。
父が転勤するとき張先生は立派な書を掛け軸にして下さいました。あの書はどこに行ったか分かりません。
昔昔の話です。
目次へ