2015.4.10
昔の話
昭和3年に生まれてから12年に東京へ引っ越すまで満州の安東県に住んでいました。
安東県は今,遼寧省丹東市といって人口が100万を超える大都市になっているようです。
朝鮮との国境を流れる鴨緑江の川岸にあり,対岸は朝鮮の新義州でした。鎮江山という山があり櫻の名所でした。
満州の市民生活は全て南満州鉄道(満鉄)のお世話になっており、病院は満鉄病院、生活物資は満鉄購買会、
小学校も満鉄の経営で日本人向けの学校が、大和小学校と朝日小学校と二つあるほど日本人の多い町でした。
満鉄は奉天(今では瀋陽)から安東を通って朝鮮半島を縦断し釜山まで特急列車が走っていました。
新義州から先は朝鮮鉄道で安東は国境の町。 税関がありました。 安東では特急が1時間停車し通関手続きをして
いました。夜「安東、安東、1時間停車」という駅のアナウンスが聞こえていました。
大きな機関車ががらんがらんと鐘を鳴らして走っていたのを思い出します。
冬は寒いところでした。
朝登校するときに姉の後ろに隠れて風邪をよけながら登校していたのを思い出します。
学校は全館がスチームで暖房され、寒さ知らずでした。 外は−20℃位はざらだったようです。
学校は冬スケート場を作って、スケート靴を持って学校に通っていました。
夏は大陸性の気候で案外暑く、学校のプールで泳いでいました。
毎日の生活では中国人と接することはほとんどなく、中国語を習うのは小学校高学年になってからでした。
お手伝いさんも内地から来た日本人の娘さんでした。それでも町では纏足のお婆さんがヨチヨチと歩いている
のを見かけることがありました。学校の同じくラスに中国人の少女が1人だけいました。
恐らく上流階級の人だったのでしょう。 何も違和感を感じなかったと思います。
鎮江山の奥に満鉄守備隊の兵舎がありました。
時々登校するときに町の辻辻に兵隊さんが剣をつけた鉄砲を持って立っているのを見かけました。
匪賊が出たときに邦人警護のために立っていたのです。 心強いことでした。
大和小学校の裏門の脇に守備隊長の官舎があり、息子さんが私の同級生でした。
あの同級生たちは私が引っ越してから8年後、終戦を迎えたわけです。
平和だった時代に引っ越した私は本当に幸せでした。
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