2007.6.29
安東県の思い出(2)



                                                                       増田 二郎


鈴木三津子様の昔話の続きです。



兎狩りの思い出

大和小学校時代、ことさら心に残っておりますのは、鎮江山の兎狩りです。

低学年だった私たちは上級生の姿が見えなくなった後、雪の中を寒さで震えながら待っていました。

そのうち先生が「大声を出せ!」と号令をかけ、全員で訳もわからず「ワァー」と大声を上げました。

やっとの思いで学校に戻って整列すると、朝礼台に上がった先生が「本日の収穫は兎2匹」と報告しました。

その兎見たのやら、見なかったのやら、何も思い出せません。文字通り「兎追いしかの山」の経験でした。



鴨緑江のこと

前々回に鴨緑江氷上ハイキングのことを書きましたが、凍っていないときの鴨緑江は本当にのどかでした。

上流から流れてきた筏がしばしば川岸に漂着していました。また韓国人のオモニ(お母さん)が、石の上に

洗濯物を乗せて棒で叩いて洗っていました。文字通り時間が緩やかに流れているという感じでした。


それに対し冬の鴨緑江は、「酷寒零下三十度」と歌われた寒さの中で、川の真ん中に設けられたスケートリン

クは氷の厚さが5m近いといわれ、氷はグリーンというかブルーというか非常に美しく見えました。

何しろ氷上でどんどん焚火をしても穴が明かないほどの厚さだったのです。

春になると氷が溶け始め、割れてぶつかり合いながら流れます。雷のようなすさまじい音でした。

(増田も母からこの音のすさまじかったことを聞いたことがあります。また税関の目をくぐろうとする密輸者が、

この溶けはじめた川を長い竿を頼りに危険を冒して渡っていたそうです。失敗して氷の間に沈む人を見たこと

があると母は言っていました)


(鴨緑江節という民謡がありました。増田はもちろん小学校に上がったか、上がらないかの年齢ですから、そん

な大人の歌を知っているわけがありません。父が鼻歌で歌っていたのを聞き覚えたものですから、歌詞も節も

怪しいものです。確か「朝鮮とシナの境を流れるあの鴨緑江ヨイショ。流す筏はアノよけれども。明日はまた

安東県に着き兼ねる」という歌詞だったと思います)



冬の寒さ

「極寒零下三十余度、卯月の半ばに雪溶けて。夏は水沸く百十余度」と歌にありました。

これは大分オーバー(冬は摂氏、夏は華氏で表示しているようで、ちょっとずるいですね)ですが、寒さは実に

厳しいものでした。寒さに備えて、二重窓、ペチカ、オンドル、ストーブ、スチームと暖房は完璧で、外がど

れほど寒かろうと一歩家の中に入れば快適でした。


こうしていろいろ思い出しておりますと、帰ることができないだけに一層昔のことが懐かしく思い出されます。

室生犀星先生の「古里は遠きにありておもうもの」という詩を思い出します。室生犀星先生も昔満州に行かれ

たとき、安東県に泊まられたことが詩集に書かれていました。

まとまりのないことを長々と書きました。暇つぶしに読んで頂けると嬉しいです。

何といっても増田さんは、同じ時代に同じ空気を吸った子供仲間ですから。


鈴木様は前にもご紹介したとおり、増田の姉と同級生。大正14年の早生まれでいらっしゃいます。

まだまだお元気ですから、これからも安東県のお話しをして頂きたいと考えております。

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