2007.6.23
安東県の思い出(1)



                                                                            増田 二郎


鈴木美津子さんのお話(子供の目で見た中国人の社会)

当時の安東県の市街(日本人街)は、京都を模して日本人がつくったものです。

綺麗な碁盤目の市街に、堀川通り、大和橋通り、市場通り、さらには一番通りから六番通りと京都風の名前

がつけられていました。懐かしい景色が思い出されますが、何分子供の頃のこと。もっと目に焼き付けてお

けばよかったなと、今更悔やんでいます。


中国人街の思い出
 

父のホテルの従業員、李さんはしばしば中国人街に連れて行ってくれました。

日本人街を通り抜けて中国人街にはいると、結構大きな建物がびっしり建ち並んでいたことを記憶しています。

建物と建物の間の狭い路地には、中国人のおじさんがのんびりたばこをくゆらし、上からつり下げた鳥かごの

鳥の鳴き声を楽しんでいるのどかな光景をよく見かけました。

面白かったのは歯医者の看板で、大きな入れ歯の模型が入り口の上にぶら下がっていました。当時中国人には

文盲の人が多かったためでしょうか。


中国人街でも日本人街に近いところには、日本人を顧客とした飯店(レストラン)や商店が沢山ありました。

毛皮などは大変安く買えたようで、当時京城(現在のソウル)に住んでいた叔母が、中国人街の店でリスの毛

皮の襟巻きを買ったことがありました。ところが帰りに税関でこれが引っかかり、一悶着起こしたことがあ

ります。(増田の母も狐、銀狐、貂(てん)などの襟巻きを買っていました。これらは全部戦後の売り食い時代

に、一家の食べ物になってしまいました。後日談です) 


李さんが珍しいところに連れて行ってくれたことがあります。

中国人街の外れにある村の広場のようなところで、今でいうフリーマーケットを見たことがあります。

ここは衣類のほか、靴半足(片方だけ)とか蓋のない鍋、破れかかった帽子などいろいろなものを売っていま

した。李さんによると「ここはショートル市場(泥棒市場)。日本人街で盗んできたものもここで売られてい

ます」そうです。盗まれた品物でも、ここでは金を払って買い戻すというルールになっていたそうです。

(昔の世田谷のボロ市と同じですね。犬がくわえていった下駄の片方が売られていたという話がありました。

現在のボロ市は普通の露店で、さほど面白くありません。私が子供の時分とは全く違います) 


この時代の中国人女性(年配の)には、纏足(てんそく)をした方が結構おられました。

纏足とは、幼いときに足を包帯で締め付け成長を抑制した足です。

足が異常にに小さいから、当然ヨチヨチとしか歩けません。李さんの話では、女性が自由に外出できないよ

うにすることと、異常に小さい足を美しいと感じることが、纏足が普及した原因だということでした。

なお李さんの奥さんは、纏足をしておられませんでした。
 
纏足をした人の足の指はどうなっているか。私は大変興味があったのですが、李さんの知り合いの纏足をし

たおばさんは笑うだけで、足を見せてはくれませんでした。



鎮江山

鎮江山の東北に中国のお寺がありました。12才か13才の頃友達とこのお寺に入ったことがあります。

お寺には建物が二つあり、右手の建物には極楽で楽しい暮らしをしている人形が飾ってあり、左手の建物に

は血の池、針の山の地獄で苦しむ人形が飾ってありました。

因果応報の教えをわかりやすく説明するために、このような人形が飾ってあったのだと思います。


このあたりにはあちこちに貧しい農家が点在していて、スッポンポンの子供たちがちょろちょろと流れる

小川のほとりで黒豚と遊んでいました。満州には黒豚しかいなかったので、私は豚は黒いものだと思ってい

ました。
 

当時私たちが子供同士で鎮江山に遊びに行く行くというと、親は馬賊が出るから奥に行ってはいけないと心

配したものでした。時代は次第に戦争に向かっており、雲行きが怪しくなり始めていました。

しかし子供たちはそんなことには関心もなく、のびのびと遊んでいました。

有り難いことだったと思っています。
 

この後、まだ続きが少しあります。鈴木様がさらに書き継いで下されば、皆様にお届けすることができます。

鈴木様よろしくお願いします。内藤さんからもぜひ御願いしてください。

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