2007.6.8
鴨緑江と安東県の思い出


                                                                           増田 次郎


5月17日のこの欄でご紹介しました鈴木三津子様から、お手紙を頂きました。

このお手紙の中から私が皆様にご紹介したいと思いました内容を、私なりに編集してお届けいたします。

「はるかな安東の思い出」の続編としてご覧下さい。なお文責は全てリライトした増田にございます。



鴨緑江の精霊流し

7月のお盆の頃の夜に、堀川筋に住んでいた私の家の前を、人々の行列がたくさんの盆提灯をつり下げた白木

作りの舟を担いで、鴨緑江に向かって行くのを見たものです。母に尋ねると、あの世に帰る仏様をお送りする

灯籠流しだと聞かされました。お寺さんが白木の舟を誂え、檀家の皆さんが見送る習わしがあったのです。

中にとりわけ小さな舟があり、不思議に思った私が母に「あの舟はどうしてあんなに小さいの? 」と聞いたら、

「お気の毒ね。赤ちゃんを亡くされたお宅のものでしょう」とつぶやいていました。


ある年、母の友人宅で新盆を迎えられたことがありました。私も母に連れられ、ご家族の皆さんと一緒に灯籠

流しに出かけました。すっかり暗くなった鴨緑江の川岸は、提灯の明かりでお祭りのようなにぎやかさでした。

お供物を積んだ舟が水面におろされようとした時、待ちかまえていた中国人の子供たちが歓声を上げてお供え

物の取り合いを始めたのです。私は怖くなって母の背に隠れてしまいました。

でも大人の方はご供養になるととがめもせず、お供え物がなくなったところで、提灯だけで飾られた舟を静か

に川に押し出しました。水面にゆらゆらと、あちらに一艘こちらに一艘と、明かりが美しく水面に映えて流れ

て行きました。それらの灯籠舟に、人が乗った小舟が一艘寄り添って下流に下って行き、鉄橋の下をくぐった

ところで灯籠舟に火を放ちました。灯籠舟は次々に燃え上がり、小さな点になって消えて行きました。

後は川風と帰る人々の話し声だけ。子供心にも何か淋しい雰囲気を感じたことが、思い出されます。


このような灯籠流しを見たのは私が7〜8才の頃までで、後年には全く見ることがありませんでした。

安東県にはいろいろな土地の人が住んでいましたから、九州あたりの土地の風習だったのかも知れません。

注 精霊舟(または灯籠舟)の習慣が一番盛んなのは、長崎県のようです

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E9%9C%8A%E6%B5%81%E3%81%97をご参照下さい。



鴨緑江の冬、スケート

当時私の家は、市場通り(いちばどおり)4丁目という商店街で旅館を営んでいました。

昭和12年か13年頃でしたでしょうか、寒い冬のことでした。

女学校の行事で、結氷した鴨緑江を川上に向かってスケート靴で小遠足をしました。

当時の女学生は制服の上に、オーバーだけでした。そこで前の晩は友人に教わったとおり、唐辛子を真綿に

くるみ革靴の中へ入れたり、手袋を2枚用意したりと、寒さ対策には結構気をつかいました。


一夜明けて当日は上天気。川岸に着いたとき、岸までぎっしり張りつめた氷は川中のスケートリンクとは様子

が違い白々として凹凸が多く、果たして滑ることができるかと不安になりました。

出発前から早々と横目でお助け舟のそりを眺めてしまったほどです。

革靴では転ぶことがわかっていますので、用意したフイギュアーの靴に履き替え、荷物はそりに預け出発しま

した。私は運動神経が鈍いので、滑るというよりペンギンのようによちよち歩き。上手に滑る友人の手にすがり、

皆について行くのが精一杯。寒さは寒し、息を吸えば鼻の中がプチッとくっつくし、手先は冷たいというより

痛いのです。初め元気だった友人も終わりは黙々と足元を見て、氷の平らなところを選んで進むだけでした。

岸辺に目を向けても、もう家はまばら。心細い限りでした。


どの程度上流に滑ったか(歩いたか?)わかりませんが、やがて小さな村落が目に入りました。

日本人町からは随分遠くに来たように思いました。そこでやっと先生から許可が出て中国人の村に入りました。

そこは貧しいながら活気のある部落で、中国人が忙しく行き交っていました。

生徒たちは先生の後に従って、その様子を物珍しく眺めていました。


先生から「ここで水餃子を注文して、食べてよろしい」と許可が出て、皆大喜びしました。

狭い家の土間に立って、欠けたどんぶりに入った湯気の立つ水餃子の美味しかったこと。

鼻水をすすりながら、こんな水餃子が食べられるとは想像もしていなかったので大感激でした。


やっと身体も少し暖まり、また氷上を帰途につきました。帰りは早々にスケート靴を諦め、友達4人と中国人の

おじさんが操るそりに乗せて貰い、頭からマフラーをかぶって帰りました。

日本人町の家並みが見えてきたので首を伸ばしたところ、行く手に鉄橋が見えました。

そしてその右手の空が赤く染まっており、夕日が沈もうとしていました。

銀一色の町並み、一面氷の鴨緑江、冬景色の中で見た赤い夕日はすごいインパクトで、70年経った今も記憶

の中に鮮明に残っています。


鈴木様のご文章は、かつて私が住んでいた安東県の景色をまざまざと思い浮かばせてくれました。

有り難うございます。また続きをお書き下さることを期待しています。有り難うございました。(増田)


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