2007.5.17
はるかな安東の思い出




                                                                          増田 次郎


5月13日の日曜日の午後、由紀さん(そよ風便りでこの出会いのチャンスをつくって下さったお嬢さん)の

お祖母様、鈴木三津子様が娘さん(由紀さんの叔母様)に付き添われ、静岡からわざわざ上京され私の自宅を

お訪ね下さいました。もちろん由紀さんもご一緒で、私の部屋に三人の美女が揃われました。

偶然ということはあるもので、鈴木さんは安東の大和小学校で私の亡くなった姉、増田美津子と同級生だっ

たのです。鈴木さんも驚かれましたし、私もこれにはびっくりしました。

鈴木さんは大正14年の早生まれ。それで大正13年7月生だった私の姉と同級生だったのです。


安東駅の話など、鈴木さんのお話は私の記憶とかなりの部分で符合していました。

安東は朝鮮と満州の国境の駅でしたから、税関がありました。

私は全く記憶がありませんが、当時税関の職員は夏は真っ白な制服で、なかなか格好良かったそうです。


列車は通関のため(パスポート・コントロールもあったのかも知れません)安東駅では1時間停車していました。

「安東、安東。60分間停車」というアナウンスが思い出されます。

税関はもちろん植物の検疫もその任務の一つでした。

満州から朝鮮にリンゴを持ち込むことは、禁止されていたようです。

当時私の一家は確か朝鮮の「南市(なんし)?」というところに家族で日帰りで出かけたことが何度かありました。

その折り私の父が税関で検査の時ポケットに入れていたリンゴを見せたら、職員が「早くポケットに入れて」

と言って見逃してくれたことがありました。鈴木さんは同じ税関で、女の人が税関の職員からこづかれて、

リンゴがぶち巻かれるのをご覧になったことがあったそうです。


大和小学校の太陽灯(紫外線照射)のことは、鈴木さんもよく覚えておられました。

紫外線よけのゴーグルをかけ、ズロースだけの裸で紫外線に当たったと言っておられました。

私は2年生までしかいませんでしたので女の子も真っ裸だったような気がしましたが、流石に上級生の女の子

はズロース着用だったようです。紫外線を照射するとき発生するオゾンの匂いの話が出て、久しぶりにあの匂

いを思い出し懐かしく思いました。


私の姉は当時かなり気性が激しく、私はよくいじめられました。学校でもなかなかきかん気だったらしく、

あるとき何か気に入らないことがあって先生の腕にかみついたそうです。

先生は「わかった、わかった」となだめておられたそうです。私は全く知らなかった話で、笑ってしまいました。

父や母は知っていたのでしょうか。
 

大和小学校のプールはここにあったとか、スケートリンクはここにあったとか、私は全く場所を覚えていませ

んでしたが、いろいろ教えて下さいました。鈴木さんが下級生の時は、少ないが下駄スケートを履いた人がい

たそうです。下駄スケートとは下駄にスケートの刃を植えたものです。

私の時は下駄スケートは見られなくなっていました。
 

鈴木さんのお父様は、富久須美ホテルという日本旅館を経営しておられたそうです。

私はこのホテルの名前を聞いたような気がしますが、記憶には何も残っていません。

お父様は大相撲巡業の勧進元をなさるなど安東の日本人界で活躍されたらしく、おそらく私の父と面識がおあ

りになったと思いますが、確かめるすべがありません。

ホテルには女性のお手伝いさんや、中国人のボーイさんが大勢おられたそうです。

ご自分で書かれた地図の上で、ここに安東神社があり、病院があり、お寺がありと教えてもらえました。

しかし私には全く思い出せませんでした。安東神社には多分参拝したことがあったと思いますが、どうしても

思い出せません。
 

満鉄(南満州鉄道株式会社)の購買組合の話が出ました。小さい私が母に手を引かれ買い物について行った覚え

があります。鈴木さんのお話ではちょっとしたデパートだったそうです。呉服まで売っていたとのことでした。

ビクトリアという白系ロシア人の経営しているパン屋があったのも、鈴木さんははっきり記憶しておられました。

美味しい揚げパンがあったことも、私のおぼろな記憶と一致していました。ソーセージの美味しいのがあったと

言っておられました。私の記憶にある美味しいソーセージは、この店のものかも知れません。

あの人たちはどうなったのでしょうか。ソ連から逃れて安住の地を求めて来たのに、気の毒なことです。


安東の東側の町はずれに元宝山? (げんぽうざん)という小さな山がありました。

私はここに行ったことがありません。ここには刑場があり、子供の行くところではありませんでした。

鈴木さんはお稽古の先生に連れて行かれ、胸の悪くなるような光景をご覧になったそうです。


写真はミクシィのアルバムで公開しようと思っています。

腰曲が爺さんのハンドルネームで日記を公開していますので、ミクシィに参加しておられる方は私のトップ

ページからアクセスしてご覧下さい。
 

鈴木さんは私が日本に帰ったときに大和小学校を卒業され、小学校のお隣の高等女学校に進学なさいました。

姉も一緒に入学しましたが、直ぐ転校していなくなったと言っておられました。

(父は姉の転校には大分頭を悩ましたようです。それは当然で、何しろ1年生の1学期の途中ですから、

東京中探しても入れてくれる学校はありません。結局つてをたどって河井道先生が創立されてから年数の

浅い恵泉女学園にお願いして転入を許され、東京に移りました)


最後になりましたが、鈴木さんの同級生に弓倉さんというお嬢さんがおられました。

私の姉の仲良しでした。お家は文房具屋さんでした。どうなさっておられるでしょう。もしご健在でお目に

かかることができれば、幸いです。いずれ由紀さんに鈴木さんのお話を聞いて書いて頂き、私の話の補完資料

として発表して頂きたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。 

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