2007.2.2
中国残留孤児のこと
増田 次郎
先日中国残留孤児が国を相手に賠償を求めた裁判の記事が、新聞・テレビに掲載されていました。
審決は孤児側の敗訴になったようですが、安部首相はできるだけの援助をするように命じたようです。
以前ここで書いたように、私は当時の中華民国奉天省安東県(現在の遼寧省丹東市)で生まれました。
私が生まれたのは昭和3年で、この土地で小学校に入りましたが、昭和12年、小学校2年生の時父が東京
の本店に転勤しましたのでこの地を去りました。
昭和12年というのは戦前でも最も平和な時期だったと思います。
安東駅から一等の寝台車に乗って釜山に着き、釜山から関釜連絡船の一等に乗って下関に着きという、誠に
贅沢な旅行で東京に着いたわけです。もし父の転勤がなくて、仮に私があのまま安東に残っていたとしたら、
このような大名旅行ができるわけがなかったのは、いうまでもないことです
それから8年後、戦争終結の直前当時、満州は空襲もなく食料事情もよく、当時内地に住んでいたわれわれ
は満州を羨ましく思っていました。
夜寝るときも服を着てゲートルをはいたままです。枕元には鉄兜(ヘルメット)と靴。いつ空襲があるかわか
らない。食べるものはロクにない。いつも腹を減らして、旨いものを一度でもいいから腹一杯食べたいもの
だと思っていました。
満州には空襲がない。食べ物も豊富だと聞いたわれわれの思いはご理解頂けると思います。
それが突然ソ連軍が攻めてきて、天国が地獄になってしまったのです。当時の在留日本人が味わった苦しみ
や、これにまつわるいろいろな悲しい話は、雑誌やテレビなどで紹介されているとおりです。
かつて王子製紙は満州、朝鮮、樺太などに多数の工場を持っていました。
私の入社した本州製紙にも大勢の引き揚げ者がいました。
その一人のYさんは北鮮製紙からの引き揚げ者でした。
この方がいつも述懐していたことは「自分は娘一人だったから家族三人無事で引き上げることができた。
もし子供が二人いたらとても連れて帰れなかっただろう」でした。
あのころはそういうことは珍しいことではなかったのです。
私の安東大和小学校の同級生は、終戦の時は皆17才だったわけですから、残留孤児にはならなかったでしょ
う。しかし私より10才年下の人たちは小学校に入ったか、入らないかの年、さらにはもっと小さい子供さん
たちが大勢いたわけです。命がけで大人が引き上げるとき、足手まといだったことは間違いありません。
子供を残してきてしまった人、残されてしまった子供。本当に戦争とは残酷なものです。
裁判の判決はさておき、この人たちが戦争の犠牲者であることは間違いありません。
政府にできないことなら、われわれが助けの手を伸ばすべきだと思います。
私も時期こそ違え旧満州の出身者です。この方たちのために私に何かできることがあったら、して差し上げ
たいと思います。これを読んで頂いた方々にも、この人々のためにお力を貸して頂けたらと思います。
援助団体などがありましたら、教えて頂ければ有り難いことです。
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