2006.12.19
人生最大のピンチ    その4




                                                                                増田 次郎


このピンチから私を救い出して下さった方々のことを、ここに書き残したいと思います。


まず最初は当時生産技術部にいたNさんです。

Nさんはかつて私と中津工場に同僚として勤務していた方です。再三病院に見舞いに来た下さいました。

私の左腕がまだほとんど動かなかった頃、私の食事をしている様子を観察しておられました。

後日「あのころは口に入ったのは半分で、残りは全部膝の上にこぼれていましたね」といわれ、笑い合っ

たことがありました。絶望的状況にあった私を慰めて下さったことは、有り難いことでした。

定年後の仕事として「特許関係の仕事をやりませんか」と勧めて下さいましたが、翻訳の仕事に進むこと

にして、彼に心配をかけました。

幸いこれが正解だったようで、いまだに仕事をしていることはご承知の通りです。

いずれにしてもNさんの友情には、幾ら感謝しても感謝し切れるものではないと思っています。

今でもしばしばお目にかかることがあり、いつも私のことを気遣って下さる大切な友人です。


故人になられた警察病院の加藤文雄先生も、私の恩人です。

私が先生の患者になったのは、多分今から30年以上前のことだったと思います。

当時東京警察病院の整形外科部長として、私の強直性脊椎炎の治療に当たって下さいました。

N医大病院から身動きもできなかった私が救急車で転院してきたのを引き受けて下さいました。

あのときから20年以上曲がりなりにも歩けているのは先生のお陰です。

夜の8時か9時頃、帰宅される前に黙って私の様子を見に来て下さって、顔をご覧になってうなずいて帰

られました。随分心強く思いました。

動けない私の首を移動式のカメラでX線撮影するとき、必ず先生が立ち会われご自分でフィルムをお持ち

になっておられました。当然先生も被爆されたわけで、申し訳ないことだったと思います。


申し訳ないことにお名前もお顔も思い出せませんが、ある看護婦さんが私に「あなたは寝たきりにはなら

ないけれど、一生車椅子は覚悟して下さい。しかしあなたは明るい人柄だから、もしかするともう少しよ

くなるかも知れません」といわれました。この言葉があったから私は「もしかしよう」と思ったのです。



これは私の病室がナースステーションの向かい側だったので耳に挟んだのですが、患者さんのご両親がお

医者さんに「うちの息子は直るでしょうか」と質問しておられました。

それに対するある先生の答えが「直るんじゃなくて、直すんですよ。薬などで治るわけがありませんよ。

気力ですよ。無理矢理、気力で直すんです。皆の力で直しましょう」
と言っておられるのが聞こえました。

この話にも大変勇気づけられました。


また私の手がガサガサになっているのを見かねて、主任さんがお湯を運んできて洗って下さいました。

あんな気持のよいことはなかったと思います。

中にはいやな看護婦さんもいましたが、総体に医療スタッフは部長先生をはじめ、婦長さん以下ほとんどが

親切な優しい方でした。

自分でもいやな性格だと思いますが、親切にして下さった方のお名前は思い出せないのに、不親切だった方

のお名前は20年以上前のことなのに忘れていません。


前に申し上げた多摩分院に移ったあとも、先生や婦長さんなどいろいろな方のお世話になりました。

入浴のお世話をして下さった看護婦さんも、本当に親切な方でした。

お顔は覚えていますが、お名前は思い出せません。


当時会社の相談役をしていらっしゃいました、川口利朗様(元本州製紙社長、会長。故人)には本当にご心配

をかけました。退職した当日相談役のお部屋に挨拶に伺ったとき「お前が一番困っているときに、助けてや

れなくて済まないな」といわれました。

私は「有り難うございますが、これで会社と縁が切れ、これから本当の自分の評価がわかります。一生懸命

頑張って、川口さんの弟子として恥ずかしくないようにやります」とご返事し、激励して頂きました。

常に私の精神的支柱になって下さいました。私の生涯の恩人です。


退職当時の栖原 亮 会長(故人)も私がご挨拶に上がったとき、わざわざ席から立ち上がって「君はこれで終

わるような男ではない。頑張れよ」と激励して会長室の扉のところまで送って下さいました。

有り難いことでした。


当時本州パッケージングの社長をしておられた志村様(本州製紙元専務。故人)にもお世話になりました。

若い連中に読ませるからとおっしゃって、翻訳のご注文を頂きました。窮状にあった私を救おうと思って下

さったのだと、今でも感謝しています。


当時本州製紙の管理部長をなさっていた加藤常務も、失意のどん底にあった私を病院まで訪ねて慰めて下さ

いました。さほど親しくもなかった私に好意を寄せて下さったことは、感謝に堪えぬところでした。

若くして故人になられましたのが、本当に惜しまれます。


最後に前記の加藤文雄先生を紹介して下さったのは、私と本州製紙に同期で入社したOさんです。

Oさんは病院まで見舞いに来て下さり、何くれとなく私をかばって下さいました。

後に本州製紙最後の社長になられ、合併後、王子製紙の会長になられました。


私はいろいろな方に守られて今日まで過ごしてきました。

ほかにも大勢の方が、私を支えて下さいました。

お名前が落ちている方があると思いますが、失礼をお許し下さい。

故人になられた方は実名を上げさせて頂き、存命の方は頭文字にさせて頂きました。
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