2006.12.8
人生最大のピンチ    その3



                                                                               増田 次郎

 
退院しましたが、前の職場である銀座の本社に満員電車に乗って通勤できる自信は全くありません。

そこで人事相談室長のF様を通じてI人事部長に、江戸川工場構内の中央研究所での勤務をお願いしました。

工場社宅に入居させてもらい、徒歩で通勤したいという厚かましいお願いです。

I部長から「これは前例のないことです。自宅勤務でもよいのですよ」といわれましたが、是非にとお願いし

て「これは前例にしない。あなたの多年のご苦労に報いる特別措置だ」と承知して頂きました。


前任地の中津工場に預かって頂いていた家財道具を送って頂き、江戸川工場の高層住宅の一室に入居させて

頂いたのは、それから数日後です。

中央研究所というところは、品質試験や新技術、新製品の開発を行うところです。

そんなところに私のような製造現場のおじさんがやる仕事などありません。

文献室の隅にデスクを置いてもらい、終日そこに座っていました。

何をやろうかと思って研究所が海外から購入している雑誌を読み、これの翻訳でもやるかと思い立ちました。

ところが字を書いてみて呆れたことは、字を書いても形を成さず自分でも読めなかったことです。

幸いワープロがありました。

まずこれを覚えようということで勉強をはじめましたが、何せ20年も前のワープロの揺籃期。使い勝手は

劣悪だし、使い手の方は50代後半のおじんですから、すんなり行くはずがありません。

「こんなことに苦労するなら、書く稽古をして人に読める字を書こう」と懸命になりましたが、こちらもう

まく行きません。

三度目の正直とはよく言ったものです。やめてはやり、三度目でやっとワープロが打てるようになりました。


私がワープロを使って翻訳をやっているところを若い研究員が覗いて「うまく行きますか」と効きました。

「うん、ワープロで翻訳をやると、消しゴムが要らないから便利だよ」と答えました。

ここでワープロを覚えたお陰で、現在こうしてインターネットを使うことができるわけです。

研究所にいなければ、パソコンにさわる機会もなく、果たして今日の私があったかどうかわかりません。


翻訳に疲れると、旧知のO所長代理のところに無駄話をしに行きました。

下らない年寄りの無駄話に付き合って頂き、有り難いことでした。


そうこうするうちに、段ボールの研究グループの若い研究員がドイツ語の文献を持ってきて、

「これを読んでくれませんか」と頼んできました。

何しろほかに仕事がないのですから一日中頼まれた仕事をやりました。

大変重宝がられ、段ボールグループの連中とはすっかり仲良くなりました。


昼休みには屋外で勝手なリハビリ体操をやりました。帰宅してからは構内のストアや、近所のお店で食材を

買い、自炊をやりました。包丁で野菜を切っていて、切れないので手元を見たら、親指を包丁で切ろうとし

ていました。腕力がなく、包丁はなまくら、その上に刃の当たっていたところが親指の爪でしたから、何事

もなくすみました。危ない話です。

掃除、洗濯全て自分でやりました。これが最高のリハビリになりました。


そのころ定年後何をやろうかと悩みました。

最初に考えたのは職務で特許事務に関係したことがあったので、弁理士の資格を取ることでした。

しかしこれは技術者より法律家的センスの方が必要なように私には思えました。

やめた。次にコンピュータのソフト屋を目指そうと思いました。

自宅の近くにある産業能率短大にソフト技術者養成コースがあるのを知って出かけてみました。

これも自分に向いているのかと自信がありませんでした。

悩んだ末にやはり翻訳屋をやろうと思いました。翻訳屋でもやるか、翻訳屋しかできそうにないから。

まさしくデモシカ翻訳屋です。しかしこれが正解だったようです。

決心してから旧知の紙業タイムス社のU編集長に「私は身体が駄目になり、定年が近い。私にお宅の雑誌の

翻訳をやらせてくれませんか」とお願いしました。

「あなたがやってくれるならお願いしますよ」と返事を頂きましたので、「とにかくサンプルを提出させて

下さい。サンプルですからもちろん無償です」と申し上げました。


サンプル納入後数日Uさんから

「増田さん。いけますがな。これから全部あなたに任せる。だから突然やめたなどというのはあきませんぜ」

と電話がありました。増田翻訳工房誕生の一瞬です。

私は「ピンチのあとにチャンスあり」は、今でも嘘ではないと思っています。


次回は私のピンチの間に、それがチャンスに変わる間に、私を支えて下さった方のことを書かせて頂きます。

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