2006.11.29
人生最大のピンチ その2
増田 次郎
右腕が動くようになったときです。ベッドで寝たきり。右手を自力で顔の前に出せるようにはなりましたが、
指はわずかに曲がる程度で、ほとんど動きません。
そこでこの指をベッドの周囲にある転落防止柵のパイプに引っかけて引き伸ばしました。
パイプが曲がって弁償することになったら嬉しいと思いました。
もちろんパイプを曲げる力があるわけはありません。
何しろ一日中寝ているだけですから、することは何もないのです。
人差し指、中指、親指、薬指、小指と、暇に任せ繰り返し、繰り返し引っ張りました。
これで指が動くようになりました。
最初は親指と人差し指でマル(お金のサイン)を作ることもできませんでした。
当時はもちろん握力ゼロです。
毎日毎日繰り返しました。
右手で頭の上の柵につかまり身体を引っ張り上げようとしました。
そうやっているうちに結構握力が強くなりました。
ベテランの看護婦さんに「私の手を力一杯握ってご覧なさい」といわれて、本気になって力一杯握りました。
「痛い、痛い」と悲鳴を上げて「私は女よ。そんな馬鹿力で握ってひどいじゃありませんか」と叱られました。
謝りましたが、すごく嬉しいことでした。
ベッドに寝た状態から起きあがるのも、手伝って起こしてもらわなければなりませんでした。
これも一計を案じて、右足をベッドの下の横棒に引っかけて体を起こしてみました。
これも成功して一人でうまく起きあがることができるようになりました。
右足の甲にベッドの横棒が当たって、傷ができたのは誤算でした。
看護婦さんが横棒に包帯を巻いて下さったので、この問題は解決しました。
こういう風に一つ、一つできることを増やして行きました。
いつから、どうやって歩けるようになったか、今となっては思い出そうとしても何も思い出せません。
左腕はぶらぶらで、長い間自分の思うようには動きませんでした。
どうやら動くようになってからパジャマを着たら、左の袖がバカに長くなっているのに気が付きました。
どうしてだろうと思っていましたが、裸になって自分の身体を鏡に映してみて、はじめて袖が長くなった
理由がわかりました。袖が長くなったのではなく、左の肩がなくなってしまい結果的に腕が短くなってい
たのです。左手は一時死んでいたと前回書きましたが、死んでいる間左腕には栄養が来ていなかったので
しょう。そのため自分の骨を食ってしまったものと思われます。
これが本当の形(肩)無しです。お陰でショルダーバッグをかけるときは、今でも必ず右に掛けています。
左に掛けると滑り落ちてしまいますから。
これらは全て飯田橋の本院にいたときのことです。
多摩分院に移ってからは、広いリハビリ室で午前中にたっぷり体を動かした後、午後は自主トレをやらせて
もらいました。マットの上に寝て起きあがったり、正座してどこにもつかまらずに立ち上がったり、自分で
工夫していろいろな動作をしてみました。
多摩分院の整形外科の先生に「あなたはどういう風によくなりたいのですか?」といわれました。
私は1. うまい刺身を食べに行きたいが、フォークで刺身は具合が悪い。
箸を使って食事できるようになりたい。
2. 定年で辞めたら旅行に行きたい。
田舎の駅では階段の昇降が必要である。手すりにつかまって階段の昇降ができるようになりたい。
3. 田舎の駅には普通洋式トイレなどない。しゃがんだスタイルから立ち上がれるようにならないと
雪隠詰めになると申し上げました。
先生は「非常に明快だ。やりましょう。絶対可能ですよ」と言って下さいました。
もちろん苦労ではありましたが、日に日によくなって行くので楽しい日々でした。
人間が明るくなりました。人間には希望が必要です。
近所のスーパーに牛乳などを買い物に行ったり、毎朝のように近所の国分寺遺跡公園まで散歩に行きました。
9月に入り、先生に「病院の至れり尽くせりの環境にどっぷり浸かっていては、これ以上は直らないと思い
ます。退院して足慣らししてから会社に出たいのですが」と話しました。
先生は「大賛成だ。退院したら足慣らしなどいらないから、すぐ出勤して働きなさい」と言われました。
会社の了解を得て9月末のある日退院しました。
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