2006.11.17
人生最大のピンチ その1



                                                                             増田 次郎


何が辛かったといっても、20年あまり前の頚髄損傷後遺症のリハビリほど辛かったことはありません。

今でも思い出すのが辛いほどです。私の生涯を通じて最大のピンチでした。

これを書くかどうか随分迷いましたが、皆さんに私の見た地獄をお話しすることが皆さんのお役に立つこと

があるのではないかと思い、書き残しておこうと思った次第です。



あれは昭和59年1月のことでした。あの年は寒い冬でした。


病室の窓から見える空は灰色で、ひっきりなしに雪が降っていました。

頚髄損傷という怪我は全くからだが動きません。頭脳以外は完全な死体です。

最初は顔だけが正常で、ほかは感覚が全くありませんでした。

しかし私は運がよかったのです。最初に動いたのは右手の指でした。怪我をした翌朝のことです。


なにか指に風が当たったような気がしました。

そばを通った看護婦さんに見てもらったら「動いています」と言われました。

それから少しずつ右手、右足、左足の順序で少しずつ動き出しました。

最初に自分の右手を見たとき、看護婦さんに「これは何ですか」と質問しました。

「これはあなたの右手ですよ」と言われたときの驚き。何とも形容できないどすぐろい不気味な色でした。

あのときは私の全身が死体寸前だったのでしょう。

「私の左手はどこにありますか」と聞いたら、看護婦さんが「ここです」と顔の前に持ってきてくれました。

看護婦さんが手を離すと左手はあっという間に下の方に行ってしまいました。

こんなことを言っても信じてもらえないでしょう。

私にも信じられませんが、あのときの感覚は記憶として体内に残っています。


当時は将来どうしようかと不安が一杯でした。

こんな体で生きていたって仕方がない。どうして生きているんだろう。死ねばよかったのにと思いました。

それを思うと涙が果てしなく流れました。今でもあのときのことを考えると目の奥が熱くなります。

ここまで書くには書きましたが、随分はしょってあります。

話の筋が通るように書いたつもりですが、本当は書きたくない話なので、この程度でご勘弁下さい。 


入院してから1週間ぐらいでリハビリが始まりました。

理学療法士さんが病室に来て、「リハビリを始めましょう」というのです。

「全然動かないんですが」といったら「それでいいんだ」といって手足を持って動かして下さいました。

「力を入れなさい」と言われて仕方がないから「よいしょ、よいしょ」と声を出しました。

力の入れ方もわからなくなっていたのです。


いつから、どうして、歩けるようになったのか、今では思い出せません。

車椅子で1階のリハビリ訓練質まで連れて行ってもらった時期があったと思います。

歩けるようになってから療法士さんの卵が私のところに迎えに来て下さって、一緒に歩いて行ったことも

ありました。そのときにエレベーターのボタンを押そうとしたら、狙いが外れて指で押せなかったのには

驚きました。 


頚髄損傷というのは、脳から出ている神経が断線はしていないけれど、神経の回線にすごいノイズが入って

いる状態のようです。

動けるようになってから、手帳に字を書こうと思ったら書けなかったのでびっくりしました。

まず最初に鉛筆をどうやって持っていたのか、思い出せませんでした。

指のペンだこも消えていたので、ペンを握っていたときの痕跡も残っていないのです。

そして辛くも書いた文字は自分でも全く読めませんでした。


ここまで回復したのは全て、警察病院整形外科部長の加藤文雄先生のお陰です。

加藤先生は毎晩のようにお帰りになる前、私の顔を見に来て下さいました。

先生は後に警察病院副院長、さらにその後西東京警察病院長を歴任され、その後亡くなられましたが、私の

命の恩人です。
 

5月の連休まで毎日リハビリが続きました。

5月の連休前に加藤先生から「医学的に治療できることは、もう終わりました。よかったら国分寺の多摩分

院(現在の西東京警察病院)でリハビリをやりませんか」と言われました。もちろん否やはございません。

本院と分院の間を往復している救急車スタイルの車に乗せて頂き、多摩分院に移りました。

ここからリハビリの第二段階が始まりました。
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