2006.9.15
奄美の話(続き)
増田 次郎
読み返してみて随分書き足りないことがたくさんあったことに気づきました。
思いつくままに皆さんにお伝えしたいことを書いてみます。
夏の奄美はかなり暑いです。しまんちゅの皆さんは、毎年毎年堪えられない暑さだと感じておられます。
私は半潜水船で大島海峡(奄美大島と加計呂麻島の間の海峡)のサンゴ礁を見るのが大好きでした。
竜宮城というのはこういう海底の景色を見た人が考えたものだと思っていました。ところが海水温度が
わずか1-2℃上昇したため、この美しい珊瑚が死滅してしまったと聞きました。
珊瑚は海峡の一部に僅かに残っているだけだそうです。地球温暖化の悲劇の一つでしょうか。
私の手元にあるビデオだけが昔の美しさを伝えるのでは、悲しいです。
前回お伝えした加計呂麻島の諸鈍に「ホライゾン」というペンションがあります。
ここもIターンの方が経営しておられるお店です。
ここのレストランの建物は流木で建てたものだと説明しておられました。流れ寄るのは椰子の実だけでない
ことは承知していましたが、ここまで大きな丸太が流れてくるものかと驚きました。
30坪ぐらいありそうな建物ができるほど大量の流木が漂着するとは想像もつかないことです。
奥さんが昼食をサービスして下さいましたが、阪神大震災の時は西宮市で怖い思いをなさったそうです。
この被災経験もIターンを決断された動機の一つかもしれません。
お天気のよい日に西海岸(東シナ海側)の大浜海浜公園に夕日を見に行きました。
4時過ぎに着きましたが、待っているといつまでも日は沈みません。
サーフィンをする人や泳ぐ子供たちなど賑やかな海岸をぼんやり眺めていました。
案内してくれた田代さんが「退屈では」と心配してくれましたが、寄せては返す波打ち際を見ていると
退屈などは全くありません。まさに至福の時間でした。
6時半頃ようやく日が沈みそうになりましたが、水平線上に雲があって惜しいところで荘厳な日没を見る
ことができませんでした。しかしすばらしい夕方の海を十分満喫できたのは幸せでした。
奄美にはカソリック教会が沢山あります。と申し上げると殉教の歴史を思われる方が多いと思いますが、
奄美にカソリックの布教が始まったのは戦後のことだそうです。
終戦直後の奄美は現在のように道路が整備されておらず、米国人の宣教師は徒歩で幾日もかけて山を越え、
散在している集落を布教して回ったそうです。
数年前奄美大島北部の笠利町の教会で高齢の神父様にお目にかかりました。
足も不自由になっておられましたが、お元気でわれわれ信仰心のない者ににこやかに応対してくださいまし
たのを覚えています。この神父様は亡くなられたそうですが、こういう方々の努力がこの土地にカソリック
の信仰を植え付けたのでしょう。
奄美空港のすぐ南に「ばしゃ山村」というホテルがあります。
この名前を聞いたとき「馬車山」と思いましたが、実は芭蕉山だと教えてもらいました。
芭蕉の繊維を布に織ったものが芭蕉布ですが、昔はこれがこの島の重要な産業だったのです。
現在でも芭蕉山はあちこちにあります。ところでこのばしゃ山には愉快な意味が隠されているのです。
昔はばしゃ山は重要な財産だったそうで、美しくない娘さんを持ったお金持ちは、持参金ならぬばしゃ山
をつけて娘さんをお嫁にやったそうです。
それにちなんで美しくない娘さんをばしゃ山と呼んだそうです。
奄美大島には毒蛇の「ハブ」がいます。
捕まえると高い値段で売れるそうで、役場に持って行くと幾らと定価が決まっているそうです。
ハブを引き取るのは役場だけでなく、ハブ酒を造っているところもあるし、見せ物に使うところもある
そうで、高い値段で引き取ってくれる業者があるそうです。
そこでタクシーはハブ取りの道具を常に積んでいて、道路にハブがいるのを見かけると宝物を見つけた
ようなもので直ちに捕まえて副収入にするそうです。
ハブは恐ろしいものですが、山にこれがいるため皆が山に入らず、このため自然が守られたという話を
聞きました。面白いものです。
思いつくまま下らないことを書きました。
私は奄美大島に、そこに住む人々に一方ならず好感を持っています。
お読みくださった皆様が奄美大島に関心を持たれて、遊びに行っていただければ幸いです。
目次へ