2006.2.19
財政再建に待ったはありません




                                                                                                               
                                                                     増田 次郎


経済や財政には全くの素人の老人が、こんなテーマを取り上げて物笑いの種になるのが関の山でしょうが、

敢えて素人考えを述べさせていただきます。


前に何度も書いたことですが、

私どもは終戦直後の大混乱の時代(
1945年からの約10年間)を生きてきました。

当時の生活の苦しさは生涯忘れ去ることができません。


焼け野が原になった東京。当時壕舎(ごうしゃ)という言葉がありました。

多分漢字でこう書いていたと思います。

住宅が焼けてしまい、防空壕とその周囲に焼け残った板やトタン板で小屋を建てて住んでいた人が沢山

いました。ガラス窓などあるわけがないのですから、お天気の良い昼間は板や焼けトタンでつくった

板戸を開いて、つっかえ棒で押さえ明かりを採ったのです。

私の家は辛うじて戦災を免れたので壕舎住まいを経験せずに済みました。

家の中に食物と交換する品物が残っていましたから、戦災を受けた(焼け出された)人とは生活水準

に天地の差がありました。



お札の信用は全く地に墜ちていました。おさつ(サツマイモ)は食べられるが、お札は食べられない。

貨幣の信用がなくなれば、物々交換でしか生活必需品が手に入りません。

お芋の買い出しに電車に乗って川越の先(小川町や高坂)まで行き農家に頭を下げてお願いしてやっと

お芋を分けて貰いました。

ホリエモンさんは「お金さえあれば人の心でも買える」と豪語しました。

それは貨幣に信用があっての話です。当時は札束を枕に餓死しかねない時代でした。


この当時の大インフレのすさまじさは忘れることができません。

預貯金、国債、生命保険、外地企業(南満州鉄道株式会社、朝鮮銀行、台湾銀行など)の株式などは

全て無価値になりました。このときのインフレで最大の被害者になったのは老人でした。

私の父も長年にわたり蓄えてきた貯蓄がほとんど無価値になりました。

家が焼けず、1人も戦死者が出ず、全員が一応健康だったのでわが家は生き残ることができたのです。


デフレも恐ろしいが、かつて経験したわれわれにとってインフレの恐ろしさは身に沁みています。

インフレになったとき、一番弱いのは過去の蓄積に依存している老人です。

戦前月給
100円というのは、サラリーマンとしてはかなりな高給者でした。

それがほんの数年の内に、大げさにいえば電車の最低運賃になってしまったのです。

お金を持っていても金の値打ちがどんどん下がる(物価が上がる)から、借金を返すのは楽になります。

インフレは借金を棒引きにしてもらったようなものです。その代わりに預貯金は紙切れ同然になります。


米国に日本の日銀に相当する連邦準備制度理事会(FRB)という役所があること、その議長であった

グリーンスパンさんという名前は皆さんもご存じでしょう。グリーンスパンさんは長年議長として公定

歩合を調節し、米国経済がインフレにならないようにコントロールされたと聞いています。



日本国の財政が大変な赤字になっていることは、皆さんもご存じでしょう。

私は日本にグリーンスパンさんがいるのかどうか、心配です。

日銀総裁の福井さんが日本ではグリーンスパンさんの立場におられると思います。

何としても大インフレだけは防いで頂きたいと福井さんにお願いする次第です。


かつてインフレに苦しんだときの日本は敗戦国。

海外植民地の資産を全て失い、国内の工場は爆撃で壊滅状態。今の日本とは天地の差がありました。

それでも日本は
60年前に焦土の中から蘇りました。

今の苦境を抜けられないわけはありません。代議士、役人の方たちは自分一人の生活安定でなく、

国全体の経済安定のために頑張って欲しいと思います。

絶対赤字になること間違いなしの高速道路を作ったり、官製談合で天下り先の確保をしたり、

後の世から笑われるようなことはしないで頂きたいものです。


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