2005.4.25
明治学院中学部の思い出(勤労動員)


                                                          増田 次郎


前にも書いたことですが、中学
4年生の1学期を終わったところで、私たちは勤労動員で

工場に行くことになりました。

1学年がAからEまで5クラスに分かれている中で、私は4年のときE組でした。

E組の動員先は品川、青物横丁の東京ラヂエーター製造株式会社でした。

ほかの組の動員先は日本通運の汐留支店や牟田鋳工所の蒲田、大崎の両工場でした。

日本通運に行った組はトラックの荷物の積み卸しで、力仕事専門だったそうです。

牟田鋳工所(戦後兵器メーカーだった日平産業が倒産したとき、下請だった同社は連鎖

倒産した模様です)は鋳物屋ですから汚れ仕事で、どの組も今で言えば3K仕事に従事

しました。それまでは中学生で一応勉強をしていたわけですが、動員後はいっぱしの

肉体労働者になりました。しかし
15才か16才でこのような経験をしたことは、マイナス

ばかりではなかったなと今でも思います。



秋には2年生も東京ラヂエーターに動員されてきて、先輩面ができるようになりました。

4年生は身体もある程度大きくなっていましたが、2年生は体力もなく大変だったろうと

思います。



動員といってもただ働きではなく、動員学生を受け入れた会社は授業料を全額負担して

いました。月給をもらっていたかどうかは覚えていません。

なにがしかのお小遣いをもらっていたような気もします。

友人の話だと月給が
25円だったというのですが思い出せません。



東京ラヂエーターは本社工場が川崎にあり、見学に行ったことがありますがそちらの方は

かなり大きな工場でした。(現在同社は藤沢に本社工場があり、海外にも工場をお持ちで

立派な会社です。お電話してみましたらご親切に社史を送って下さいました。しかし残念

ながら明治学院中学部が動員されていたことについては記述がなかったので、次の機会に

は是非書き加えて頂くようにお願いしておきました)。


ラジエーターとは自動車などのエンジン(水冷式)を冷やすために循環させている水を、

風で冷やす装置です。

われわれが動員された品川の工場は文字通りの町工場で、公道を挟んでスレート葺きの

建物が
2つに分かれており、私が働いていた東側の建物にある設備の大半は、ラジエーター

を組立るための専用機でした。これは要するに水を流すチューブに、冷却用の無数の羽根

を取り付ける作業をする専用機です。


私は組み立てるときチューブがつぶれないように芯金という金物をチューブに差す仕事を

担当し、一日中扁平なチューブに芯金を差し込んでいました。

今なら当然ロボットがするような仕事ですが、当時は人海戦術で朝から夕方まで単純作業

をしていたのです。西側の建物にはチューブにハンダメッキをする工程があり、チューブ

をやっとこでつかんでハンダの溶融液にどぶづけしたりしていました。

旋盤などの汎用工作機械はほとんどなく、後年大学の友人が「俺は旋盤の熟練工だった」

などと自慢するのを聞くばかりで、後年機械工学を専攻するのに役立つような仕事には縁

がありませんでした。



製品は陸軍のトラクター(戦車だったのかも知れません)や、いすゞのトラックなどに使

われるものでした。トラックのエンジン用は私が芯金を差していた扁平なチューブを使用

しており、トラクター用は銅製の丸パイプを使用していました。

何分戦争中のことですから何でも秘密で、用途などは何もわからず毎日ただ働くばかりの

生活でした。


今年の41日にクラス会が開催され、当時の思い出で大いに盛りあがりました。

東京ラヂエーターの仲間が一番よく覚えていたのは、

終業後に食べさせてくれたどんぶり一杯の雑炊でした。

当時紅顔の美少年も今では
76才の老人で、名札でようやく相手がわかる状態でした。

あれから
60年も経っているのですから他界した人、体調不良で欠席した人が多いのは当然

ですが、淋しいことです。
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