2005.2.25
小学生時代の私と戦争



                                                                                                      
                                                      増田 次郎


昭和1277日に北京郊外の濾溝橋(ろこうきょう)で日中両軍が衝突したことで、

シナ事変(日華事変)が始まりました。何分小学校
3年生のことですから、よくわけも

わからず「勝った。勝った。日本軍は強い」と喜んでいました。

これが破滅への第一歩だったなど思いもせず、単純なものでした。

しかし今にして思えば、全てはソ連のスターリンが書いていた台本通りに進行していた

らしく、これが明治維新以来全国民が営々として築き上げた「大日本帝国」の最終幕、

滅亡の幕あけだったのです。




「満蒙(満州・モンゴル)開拓」という言葉が巷に氾濫していました。

満蒙開拓義勇軍という団体があり、茨城県の内原に訓練所を設けて多数の青少年を

大陸に送り出していました。また少年航空兵の勇ましい写真が新聞や雑誌に掲載され、

子供達の憧れの的となっていました。


一方何かといえば「非常時」という言葉で国民の行動が規制されていました。

われわれ小学生はきれいに着飾った奥様の後を

「今は非常時節約時代、パーマネントはよしましょう」と当時の流行歌の替え歌を歌い、

はやして歩きました。何もわからないガキどもがと、今考えると冷や汗が出ます。




「贅沢は敵」というスローガンはどこにでも掲げてありました。

これをもじった「贅沢は素敵」という言葉があったと戦後テレビの番組で聞きましたが、

当時は全く聞いたり見たりした覚えがありません。



兵隊さんとして戦地に行く人が増えました。

肩に「武運長久」などと書いたたすきを掛け(今選挙の立候補者が掛けているような

たすきです)、頭を丸刈りにして戦闘帽をかぶり、「祝出征〇〇〇〇君」などと書いた

幟旗(のぼりばた)を立て、ご家族やご近所の方に送られて神社などで挨拶していました。

今考えると生きて再び帰ることができるという保証はなかったのですから、

ご本人やご家族の心中は大変なものがあったと思います。

われわれ子供は気楽なもので、後ろの方で万歳万歳と叫んでいました。




千人針という習慣がありました。日本手ぬぐいぐらいの大きさの布に、

おおぜいの人が赤い糸で縫い目を一つずつつくり、これを戦地に行く人が身につけたのです。

縁起物として「死線を超える」ということで5銭玉を、「苦戦を乗り越える」と

10銭玉を縫いつけていました。身内の方が街角に立ち、通りかかった女の人に

「お願いします」といって一針ずつ縫い目をつくってもらっていました。

私の母や姉も、そういう方から頼まれて縫い目をつくっていました。

また日の丸の旗に、出征される方の親戚、知人、友人が寄せ書きをしていました。

これも中央に「祝出征〇〇〇〇君」とか「武運長久」などと書いてあり、

その周りに名前を書いて行くのです。

こういう千人針や日の丸の旗を身につけ、大勢の方が戦地に行かれました。

そして大勢の方が再び故郷の土を踏むことなく、戦争の犠牲になられました。



戦争は中国大陸全土に拡大していましたが、

幕引きを考えていなかった日本政府はずるずると破滅への道を歩いていました。

日独伊三国同盟を結び世界を相手に戦うしかなくなっていた日本は、

全国民がいつになったら平和な世の中になるかと、閉塞感に押しひしがれていました。

それが昭和
16年を前にした日本の現実だったと思います。




戦争の影響は次第に国民生活を圧迫し始めていました。

いつからそうなったか記憶が定かではありませんが、

食糧、物資の配給制度が始まっていました。

お米屋さんが「毎度有り難うございます」といって配達してくれていたのが、

お店が配給所という看板を出し、

買う方が売って頂きに行かなければならなくなったのです。

わが家の近所の酒屋は配給所の所長ということで、

にわかに偉くなった気で威張り出しました。

それまでのお得意さんを「〇〇」と呼び捨てにし始めました。

わが家は長年つき合いのあった酒屋さんの振る舞いに憤慨し、

戦争が終わった後ご用聞きに来たお店の主を追い返しました。

このお店はついに酒屋として復活することができませんでした。




衣料品は点数制度になり、一人一人に点数分の切符が割り当てられました。

たとえば靴下は一足が何点という形でその点数の切符を持って行かないと、売ってくれなく

なりました。割当の点数を使ってしまうと、お金があっても買えないわけです。



もちろんこれは表向きで、何にでも裏があります。

公定価格では売らなくてもお金を出せば(闇値という言葉かありました)買えました。

闇商売、闇商人というような言葉が生まれました。

公定価格の配給品、闇値の闇物資。軍需品を生産している工場には物資の特配がありました。

それに伴ういろいろな悪徳行為が横行していました。嫌な時代でした。


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