2005.2.10
第四の学校ボロ学校



                                                                                                       増田 次郎


前にも書いたように昭和12年父の転勤で一家で東京に引っ越して来て、東京市世田谷区

第四荏原尋常小学校(現在の太子堂小学校)の三年生に編入しました。

今から
70年近く前のことです。


自宅は当時の太子堂町
345番地にありました。

自宅から学校までは
10分ぐらいしかかからないのですが、いつも始業時間の1時間前には

家を出て校庭で遊んでいました。


相撲の本場所が始まると、校庭でも相撲を取る。寒いときは押しくらまんじゅうをする。

また馬跳びをする。

馬跳びというのは子供が二組に分かれ、一組は馬になって前の者の股の間に頭を突っ込んで

(ラグビーのスクラムのように)一列に並びます。

跳び乗る側の一組は次々にこの上に跳び乗って行くのです。

最初に飛ぶ子はできるだけ距離を飛んで先頭の方に乗るのです。

跳び損なって落っこちる子が出ると「落ちた、落ちた」と馬組がはやしながら、

跳び組との攻守交代が行われます。


相撲は番付をつくり、一番強い子が横綱。私は三役にはなれず、前頭上位で相撲を取って

いました。かなり弱い方です。

押しくらまんじゅうは、寒いとき皆で教室の隅などで「ごんべ、ごんべ、押されて泣くな、

ごんべ、ごんべ」とはやしながら押し合うのです。結構暖かくなりました。

ドッジボールも盛んでした。私は上手な子の後ろに隠れ、いつもコートの中を逃げ回って

いました。


キックという遊びもありました。ルールは野球に似ていて、ホームベースの上にボールを

置き助走をつけていってこれを相手の守備陣に向けて蹴るのです。

相手がフェアグラウンドに飛んだ球を捕れずに、一塁に送球しても間に合わないとヒット

になります。守備側の頭上をはるかに超える大飛球を上げれば、ホームランにもなります。


雨が降ったときは、教室でハンカチ取りをよくやりました。親指と人差し指の間にハンカチ

を挟み、これを相手の油断しているところで引き抜く遊びです。


「どんけつ」という遊びもあり、尻と尻をドスンとぶつけ合って相手を動かすわけです。

後年田舎の工場にいたとき、芸子さんの中にこの「どんけつ」の名手がいて男どもが総なめ

にされたことがありました。東京の小学校では女の子は「どんけつ」などやっていなかった

と思いますが、どうでしょうか。



ビー玉、メンコ、ベーゴマは構内への持ち込みが禁止されていましたが、どういう理由か

けん玉は禁止されていませんでした。

恐らくビー玉、メンコ、ベーゴマは勝つと相手のものを取り上げてしまうので、賭博行為

だということで嫌われたのでしょう。けん玉では名人クラスが大勢いて業を競っていました。

放課後のビー玉、メンコ、ベーゴマも同様で、私は親から禁止されていたので蚊帳の外でした。

こういう遊びは今の子供達の間でもやられているのでしょうか。




第四荏原小学校は歴史の新しい小学校で、本校は荏原尋常高等小学校(現在の若林小学校)

でした。荏原尋高は、明治時代に日本に近代的学制が布かれて直ぐ誕生した学校だったよう

です。人口の増加につれて分校が増え、第四荏原は昭和初年の創立だったようです。

第一回の卒業生は、私の在校当時はまだ大学生だったと思います。


講堂はないし、プールもないし、設備の整った学校ではありませんでした。

そこで悪ガキどもは「第四の学校ボロ学校、上がってみたらいい学校」とはやしていました。

対抗意識があるので、ほかの学校のことを「〇〇学校ボロ学校、上がってみてもボロ学校」

と悪口を言っていました。

現在の太子堂小学校は、体育館もプールもある立派な学校のようです。

でも何年か前に行ってみたら、周辺には私たちの遊び場だった「原っぱ」など全くなく、

目黒側の上流は暗渠になっていました。今は昔の物語です。
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