2005.1.5
少年時代の思い出(満州のことA)


                                                                増田 次郎


満州では最低必要なものは全てが満鉄(南満州鉄道)の手で経営されていました。

子供のころ母に連れられて「組合」に買い物に行っていましたが、これは満鉄の経営

(多分満鉄の購買組合だったのでしょう)でした。

病院も満鉄でしたし、安東に二つあった小学校(大和と旭)も満鉄の経営でした。

大和小学校は煉瓦造りのどっしりした建物でしたが、歴史の新しい旭小学校は鉄筋

コンクリー造りでした。どちらも冬はスチーム暖房が完備していて、抜群によい環境

でした。東京に来て、小学校の建物の粗末なのに驚きました。


丹東は人口100万人を超える大都会だそうですが、

私がいた当時の安東は多分人口が
10万人以下だったと思います。

日本人の多い町で、王子製紙の子会社である安東造紙の工場があった(子供でしたから、

どこに工場があるかなど興味がなかったので)そうです。

後年私が本州製紙に入社したら、黒川さんというお年寄りの顧問がおられ、

「お父さんはお元気か」と聞かれたことがあります。

町には立派なホテルや、商店街もあり結構賑やかでした。



昭和11年の春にいわゆる二・二六事件が起こり、

号外を父から見せられたのをかすかに覚えています。

このころわが家にはラジオさえなく、新聞だけがニュースソースだった時代でした。

昭和
6年の満州事変は全く記憶にありません。

倉本大尉が戦死した話などを聞いたことはありましたが、

それは後になってから知ったのかも知れません。


私が父の転勤で東京に移ったのは昭和12年の春ですから、随分昔のことです。

東京に行くには安東駅から特急(確か「のぞみ」という夜行でした)に乗って釜山に行き、

そこから関釜連絡船で下関に行きました。

私の両親の実家は下関にありましたから、そちらにしばらく滞在し、その後東京行きの

特急(富士)の寝台車に乗りました。下関から東京までは
20時間近くかかったと思います。

降りた後、子供なのに
1日ぐらい身体が揺れているように感じたのを覚えています。

70年近い昔のことです。                         目次へ