2005.1.5
少年時代の思い出(満州のこと@)
増田 次郎
明けましておめでとうございます。
子供のころは年齢を数え年で数えましたから、正月になると年を一つとりました。
満年齢で年を数えるようになったのは、戦後のことです。戦前は小学校に入学するのに、
八つ上がりと七つ上がりという言葉がありました。
満年齢なら全員が六才ですが、数え年ですと遅生まれの子は八歳、早生まれの子は七歳
で入学したわけです。
中には親がいろいろ考えて、一つでも年を若くしておこうと十二月の末に生まれた子を
一月生まれで役所に届けたという話を、聞いたこともありました。
私の父は満州一の大酒のみと言われていましたが、子供にはお屠蘇を飲ませませんでした。
代わりにおでこにお屠蘇を一滴つけてくれました。
ところが大酒のみのおやじを持った二人の息子は、亡くなった兄も私も酒豪の中にはとて
も入りませんでした。
妹が結婚したとき、父は婿さんが酒好きだと聞いてとても喜び、正月に遊びに来てくれた
とき大いに歓待しました。義弟はすっかり酔っぱらってしまい、父は「弱い相手と飲んだ
ので物足りないからこれから飲み直すんだ」と一人で飲んでおりました。
息子どもが呆れかえったのは申すまでもありません。
少年時代の話だったつもりが脱線しました。
以前に書いた通り、私は旧満州生まれです。
私が育った安東(現在の遼寧省丹東)は、満州では一番南ですから極寒の地ではなかった
のでしょうが、それでも冬の寒さは格別でした。
私の生まれた家は安東の堀割通りというところにあり、あれがお前の生まれた家だと教え
てもらいました。
育った家は六番通りというところにあり、窓は全て二重窓で、広いオンドルがありました。
オンドルとは朝鮮風の床暖房で、不燃構造の床の下で石炭を焚いていました。
誠に暖かく快適なもので、ここにいれば寒さ知らずでした。
また座敷にはペチカ(歌にある「雪の降る夜は楽しいペチカ」のペチカです。
鉄鋳物製の固定された大きな筒で、私の家にあったものは室内から石炭を入れて燃焼させ
る構造でした)があり、室内は屋外の寒さとは別天地の快適な環境でした。
汚い話で恐縮ですが居室がこのように快適だったのに、トイレは汲み取り式でした。
当然冬は汚物が全て凍り、くみ取ることはできません。
次第に汚物が重なって高くなってきますから、これを労務者が鉄の棒でたたき壊しに来て
くれていました。
私が小学校に入るころには水洗トイレに改造され、この問題は解消しました。
水道の凍結防止がどうなっていたか記憶にありませんが、凍結して困った覚えがありませ
んから、しかるべく凍結防止が装備されていたのでしょう。
不思議なことに汲み取り時代のトイレの寒さは記憶にありません。
子供はそういうことには強かったのでしょうね。
父と母はよくその寒さに耐えたものだと、今でも不思議です。
私は幼稚園に行きません(行かしてもらえなかったのが真相です)でした。
私の兄が幼稚園でいたずらを覚えて、世間並みのいたずら小僧になり、育てるのに骨が
折れた(それが当たり前なのですが)ので、私を幼稚園に通わせなかったのです。
ですから私には小学校入学より前の記憶がほとんどありません。
箱入り坊やだったのです。
このため小学校に入って初めて同年齢の男の子とつき合ったわけで、
これは大変なカルチュア・ショックでした。
私の運動神経の悪さは、幼少時におままごとやあやとり、お手玉など女の子との遊びばか
りしていて、腕白経験がなかったことが一因ではないかと思っています。
安東は何分寒い土地ですから冬が長く、11月から4月一杯は冬でした。
寒い土地でしたが雪が積もることはなく、冬のスポーツはスケートだけでした。
校庭に水を張ればスケートリンクができるのですから、一番お金のかからないスポーツ
だったわけです。
小学生は皆左右のスケート靴のひもを結び合わせて、首にかけて歩いていました。
私もスケートをやりましたが、何分箱入り坊やで競争をしたことがありませんから、
スピードが遅くクラスで断トツのビリでした。
スケートは本来滑るものですが、私は前傾姿勢をとることも知らず、ただ歩いていただけ
だったような気がします。
東京に来た後は、スケートをやる機会は二度とありませんでした。
当時東京には新宿の伊勢丹百貨店の地下にリンクがあったと聞いていました。
しかしただで滑れた満州の経験を持つ父と母は、そんなお金のかかる遊びはさせてくれま
せんでした。