2004.8.25
中津川マンホール事故の思い出



                                                                 増田 次郎

この話は思い出したくない、書きたくない思い出です。

しかしこの事件が当時の本州製紙中津工場の構内で起こったこと、

そしてその事故で4人の方、特に前途有望だった野村武志君の命が失われたことは私が

生きている間に書き残して置きたいと思い、あえてここに書かせて頂く次第です。



今から30年以上前のことです。

私は当時本州製紙のMP(メタリックペーパー)事業所という小さな職場で工務課長を

していました。

4時の定時を過ぎ、丁度第2四半期の工事計画を本社で説明するためスタッフはほとん

ど全員が残って書類つくりをしていました。

工事の目的、内容、効果などを細かく書いた説明書は、既に私が書き上げていました。

スタッフがほぼ全員で手分けしてこの説明書をコピーし、利益計算書、図面などとセッ

トにして製本していました。私は翌日それを本社で説明するため一度帰宅して出張の支

度を整え、書類にもう一度目を通していました。


事業所の事務室にあわただしく工場の総務課員が駆け込んできました。

「増田さん、MPに毒ガスマスクがありませんか」と訊ねました。

「そんなものはないよ。一体何に要るんだね」と答えると、

「土場(パルプ原木の貯木場、当時は使用していないので空き地になっていました)に

ある中津川市水道(ヒューム管が埋設されていたが、当時は既に使われていなかった)

のマンホールに子供が落ちました。お宅の野村さんが寮に帰る途中で助けに入ったけれ

ど、中で倒れています」というのです。

群馬大学の応用化学科を卒業して入社したばかりの野村君は、私の大事な部下の1人で

した。聞いた途端に、私はヘルメットをかぶって現場に向かって駈けだしていました。

多分血相が変わっていたでしょう。


現場には消防自動車が1台止まっており、消防署員を含めた大勢の人がマンホールの回

りで、あわただしく立ち騒いでいました。

マンホールの中を覗くと人が倒れているのが見えました。

「増田さん。入ってはいけません。入った人は一人も戻ってきていません」

と誰かが叫びました。

「わかった。ガスだ。ガスが溜まっているんだ。よし。MPの鉄工場に酸素ボンベがあ

る。あるだけ全部運べ。それから工事用の送風機と蛇腹の送風管がある。それも運べ。

電気屋に連絡して仮配線をしてもらえ」と叫びました。



工場の現場はそういうときは素早く動いてくれます。

たちまち私のいった通りに酸素ボンベも送風機も現場に届きました。

直ぐ酸素をマンホール内に送り込み、送風機で外部の空気をどんどん送り込みまた。

消防署員が一人、酸素のチューブを鼻の所にタオルで固定して命綱をつけてマンホール

の中に入ろうとしました。

だが息が苦しくてとても入ることができないと戻ってきました。

そうこうするうちに時間は刻々と過ぎ、夏の日が次第に暮れようとしていました。

手も足も出ず、どうしようと焦るばかりでした。一方野村君のご家族に連絡しなければ

なりません。辛い役目でしたが東京のご自宅に電話しました。

お母様が電話にお出になりましたので、ご子息が人命救助のためマンホールに入られ、

そこで倒れておられ現在救出作業中だと申し上げました。


そうこうしているうちに近所に住んでいるダイビングの愛好家が騒ぎを知って駆けつけ

てくれて、酸素ボンベを背負ってマンホールの中に入り一人ずつ倒れていた人を引き上

げてくれました。医師の手当て、消防署員、工場の従業員、近所の人々が交替で必死に

なって人工呼吸をしたのも空しく一人も息を吹き返してくれませんでした。


亡くなった方は最初にマンホールで遊んでいた子供さん二人、助けに入った私の部下の

野村青年、それに消防署の若い職員の四人でした。日の暮れかかった現場をそれぞれの

関係者が悄然とご遺体を運んで引き上げました。今でもその時の風景と悲しみが頭に残

っています。


独身寮に住んでいた野村君のご遺体は、工場のクラブに運ばれました。

工場の看護婦さんが同僚だったF君を助手にご遺体を清め、お座敷に敷いたお布団に安

置しました。

F君は私に「野村君が手伝おうかといってくれたのに、これはわれわれの仕事だからい

いよと帰らせました。手伝ってもらっていればこんなことにはならなかったのに」と悔

やみました。私は「君のせいではない。運命だったのだ」とF君を慰めました。

そのころには大勢のMP事業所員がクラブに続々と集まっていました。

若くて、ハンサムで、スポーツマンだった野村君は職場の人気者でした。

女性従業員は皆泣いていました。


その間に野村君のお父様から工場に電話が入って、もう一人のご子息と一緒にそちらに

向かったというご連絡がありました。中津川駅まで所長代理と一緒にお迎えに上がりま

した。お父様に本当のお話をするのはまさしく断腸の思いでした。

タクシーの中で「実はご子息はお亡くなりになりました」と震える声で申し上げました。

お父様は「わかっておりました」とお答えになりました。つらいことでした。



クラブに着いてお部屋にご案内し、「こちらにお出でになります」と申し上げ襖を開き

ました。お父様はお部屋に入られ「これから後は家族だけにして下さい」とおっしゃい

ました。「それではここで失礼します」と申し上げて部屋の前から立ち去ろうとすると、

閉めた襖の中からお泣きになる声が聞こえました。

私も貰い泣きしながら帰りました。


翌朝お母様もお着きになりました。それからの二日間、ご両親を野村君の生活しておら

れたところにご案内しました。その間私も涙の絶える暇がありませんでした。

何か話すたびに泣くまいと思っても、涙がこぼれ泣き声が出ました。



私は決して親孝行な男だったとは思いませんが、親は家内の親も含め四人とも見送りま

した。親より先に死ぬのは最大の親不孝だと思うようになったのはこの時からです。

私の長いサラリーマン生活の中で一番悲しい思いをした数日間でした。

野村君の遺品は会社の書類までできるだけご両親様にお渡しし、私の手元には何も残っ

ていません。

残っているのは私の自宅に遊びに来て、酔っぱらったりした楽しい思い出だけです。

私が死んでしまえばこの思い出も全て消えてしまうことを恐れ、書き残した次第です。

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