2004.7.9

翻訳工房誕生話 その2

                                                                 
                                                               増田 次郎


翻訳工房を開業できたのは、私が比較的英語が得意だったからです。

英語が得意になった原因は生まれつきもあったでしょうが、多分小学生の時本を沢山買

ってもらいそれを次々に読みふけったことにもあると思います。

今でも鈴木三重吉の「古事記物語」「ブルターク英雄伝」など親が子供に読ませたがる

本を読んだことを覚えています。

本当は少年講談を読みたかったのですが、猿飛佐助や塙団右衛門が活躍するような本は

買ってもらえませんでした。こういう本は友達から借りて読みました。

もちろんこんな本は英語には直接関係ありませんが、本に親しんだことが文章を書くこ

とへの抵抗感をなくしたことは確かだと思います。


中学で聖書を習ったことも、英文翻訳のための基礎知識向上に役立ちました。

10年ぐらい前に小企業が大企業揃いの業界の中で好業績を上げているという例に、

デービッドがゴライアスを打ち倒したというフレーズが出ていました。

これが旧約聖書に出ているダビデとゴリアテの話だと直ぐわかったのは聖書を読んでい

たお陰です。翻訳には雑学が必要だというのが私の持論です。


しかし翻訳者としての私にとって一番の恩人は、川口利朗さんです。

川口さんは私が入社して本社の施設課に配属されたときの課長さんでした。

当時は終戦から余り年月が経っていない時期でしたから、施設課にも大勢人がいました。

若手は工場の建設現場に長期出張で出かけていて、私以外は大半が海外工場から引き上

げてきたロートルでした。


川口さんは課長の席から末席の私の方を眺めながら、「誰か英語を読んでくれる奴がい

ないと不便だな」と聞こえよがしにいわれました。

学校を出た若いやつは私しかいないのですから、仕方ありません。英文のカタログを引

っ張り出して、字引と首っ引きで訳して課長のところへ持って行きました。

そうしたら課長自ら赤鉛筆を持って、私の訳文をずたずたに直して下さったのです。

「これはまずい。何とか直されなくなるように」と私なりに努力しました。


お隣の製造部企画課に尾関さんという東工大機械科出身の若手先輩社員がいました。

柔道で鍛えた猛者で、大男、酒がしたたかに強く面白い先輩でした。

この方のところに教えて下さいと出かけました。

辞書や参考書を教えてもらって勉強になりました。

そのうち川口さんの赤鉛筆なしで訳文が戻ってくるようになり、尾関さんからも「お前

にわからないものが、俺にわかる訳がない。今度来たらぶん殴るぞ」と突っ放されまし

た。ほかの先輩方にもいろいろ教えてもらいました。


その時分またまた川口さんに「誰かドイツ語を読んでくれる奴がいないと不便だな」と

いわれました。また来た。仕方がない。高等学院で習っただけの錆び付いたドイツ語を

必死になって思い出し、NHKの第二放送で関口存男先生のドイツ語講座を毎朝聴きま

した。年配の方はご存じだと思いますが関口先生はドイツ語教育の大家で、素晴らしい

先生でした。さて若いことは有り難いもので、何とかドイツ語のカタログや文献が読め

るようになりました。


その後川口さんは淀川工場に転勤され、私はついに二度と部下になる機会がありません

でした。後に川口さんは社長になられ、会長を経て相談役になっておられました。

私が会社をやめて役員室にご挨拶に上がって昔話で、「昔川口さんに英語の翻訳を手直

しして頂きました。こうやって翻訳屋ができるのは川口さんのお陰です。感謝していま

す」と申し上げました。

ところが川口さんは「いいや俺はそんなことした覚えがないぞ」とおっしゃるのです。

確かに教わったと頑張ったところ「実は覚えがある。しかし君に英語を教えたなんて、

実に大それたことをしたものだ」と渋々認めて下さいました。


私の師であり、父ともいうべき存在だった川口さんが亡くなられてから随分年数が経ち

ました。「孝行をしたいときには親はなし」と申します。

このエッセイを大恩人の川口さんのみたまに捧げ、ご冥福を祈る次第です。      
                                                                 
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