2004.6.30

翻訳工房誕生話

                                                               増田 次郎

このところ何となく忙しく、投稿が遅れ勝手になりました。遅れると頭の中がスッカラ

カンになり(もともとそうなのだけれど)何を書いたらよいかわからなくなります。


そこで翻訳屋になったいきさつを書くことにします。

怪我をして(頚髄損傷)首から下の機能が一度全部パーになりました。

懸命のリハビリでどうやら杖をついて歩けるようにはなりましたが、製造現場が勤まる

ようにはなりません。定年退職まで残すところ1年半。

そこで考えたのが翻訳屋です。一体仕事があるのか、ないのか。


最初の仕事考えた末に、前に原稿執筆依頼を受けた紙パのある業界誌の編集長さんに電

話を入れました。「57才で年金をもらうだけ、毎日が日曜日ではかなわない。

お宅で翻訳仕事はありませんか?」と切り出しました。

「ただし英和だけしかできません」と付け加えたわけです。

そうしたら「ありますよ。やってみますか」というご返事。

「最初は見本だからただで結構です」ということで南アの製紙会社紹介の雑誌記事を訳

したわけです。納品してから待つこと数日。

編集長さんから「増田さん。いけますがな。これから続けてやって下さい。引き受けて

くれれば、全部あなたに任せます」と嬉しいお言葉を頂きました。翻訳料が頂けるつも

りはなかったのですが、預金口座に振り込んで頂きました。嬉しい最初の収入でした。

その時に受けた注意が「あなたに頼んでいるのは、翻訳ではありません。雑誌の記事を

書いてもらっているのです。嘘を書いては困るが、文法がどうのこうのと、七面倒くさ

いことは考える必要はない。読みやすい、わかりやすい文章を書いて下さい」というこ

とでした。これが私の文章書きの基本になっています。

編集長さんはその後その業界誌を退職され、独立してご自分の雑誌をお出しになってお

られます。「私にお手伝いできることがあったら、おっしゃって下さい」と申し上げた

のですが、遠慮されて一度もお話がありません。今でも年賀状は交換させて頂いています。

増田翻訳工房誕生の物語であります。


その後仕事は次第次第に拡大して行きました。

当時本州製紙の関係会社(段ボール製造)のS社長から、何か皆の参考になるような文

献を訳してくれといわれました。

私は現役時代には段ボールとは縁がなかったので、この仕事は大変ためになりました。

恩人の一人であったS社長はその後故人になられました。

また別の関係会社(包装容器メーカー)のK社長からは和文英訳の仕事を頂きました。

社長が米国の技術提携先に出す手紙の英訳です。

私は和文英訳はできないとお断りしたのですが、「君なら大丈夫だ」と強引に引き受け

させられました。手紙を何度も書かせて頂きました。

今でも手元に「ビジネス英文手紙辞典」など何冊か英文手紙の参考書があります。

社長が退任されるのと同時に、この会社からは仕事が来なくなりました。

最近知ったことですが、Kさんは「英語の仕事は全部増田に出せ」と社内に指示して下

さっていたのだそうです。有り難いことでした。Kさんは現在も登山や絵画と多趣味の

人としてお元気でおられます。私の恩人の一人です。


増田翻訳工房という屋号の由来を申し上げます。

学校の友人に「何故工房としたんだ」と聞かれました。「誤訳をしたとき工房も筆の誤

りというんだ」と答えたら「バカ」と叱られました。

「昔陶芸家の荒川豊蔵さんが、不出来な作品を全部たたき割ったという話を聞いたこと

がある。私も元は技術屋。職人魂はあるつもり。できの悪い訳文は出さないという覚悟

さ」といいました。

ちょっときざな話で気が引けますが、今もその気持ちは忘れていないつもりです。


このほかにもお世話になった方はたくさんあります。

次の機会にお世話になった方々にまつわる思い出話を書かせて頂きます。    目次へ