2004.3.21
平和されど空腹
増田 次郎
戦争が終わりました。
負けたショックは大きかったけれど、空襲がなくなったことの喜びは何より大きいもの
でした。しかしお腹は減っていました。
何しろ食べ盛り。それが超ダイエットをやっていたのですから、たまりません。
当時食糧は、米、魚、野菜など何でも配給で、わずかな量の食糧が買えました。
米、魚、野菜などといって肉や卵が出てこないのは、これらが配給に回ってこなかった
からです。多分こういうものは高い値段で、特別なコネのある人のお腹に収まっていた
のでしょう。
千歳船橋の近所に宇山というところがあります。
ここに私の家にお手伝いに来て下さっていた女性の親戚でTさんという農家がありまし
た。しばしばそこに買い出しに行きました。
お金では売ってもらえませんから、母の着物や帯、父の洋服など何でも持っていって食
料に替えてもらいました。このT家のご主人は私たちに「今年は米が不作だから、都会
の人間は餓死するぞ」と憎々しげに言い放ちました。
以後私は農家の人が信用できなくなりました。
食料の自給度が低いと危ないといいますが、農家には都市住民に対する潜在的反感があ
るのではないかと思えてならなくなりました。
国内自給率が高くても、肝心なときに頼りになるのかしらと心配です。
都市と農村が互いに不信感を持っていては国は滅ぶと思います。
Tさんのような考えを持った年寄りがいたのは昔のことで、現在は違うことを信じたい
と思います。もっともバブル時代を経て、T家は現在では土地を処分して農家ではなく
なって、大変なお金持ちになっていることでしょう。
当時ラジオの人気番組にミキトリローの「冗談音楽」がありました。その中で電気予報
というジョークがありました。
「明日の東京地方は、所によってときどき電気が来る」というのです。
魚の配給もジョークの種にしていました。
配給になる魚は「ほっけ」と「みかき鰊(にしん)」だけなので、それを「配給は今日
もほっけ、明日もほっけ、明後日もほっけ」と皮肉っていました。
ほっけもみかき鰊も北海道から送られてくるのですから、鮮度はひどいもので食えるよ
うな代物ではありませんでした。でもそれしか食べるものがなかったのです。
後日談があります。それから30年ぐらい後でしょうか。
築地で昼ご飯に焼き魚の定食を食べました。
美味しかったので、この魚は何ですかと尋ねたら「ほっけです」といわれ腰を抜かしま
した。こんな美味しい魚が、まずいという汚名を着せられたのです。
「みかき鰊」も同じであることは申すまでもありません。
京都でにしんそばを食べて、その美味しさに感激しました。
野草が食べられるというので近所に摘みに行きました。
駒沢の海軍病院(現在の国立病院)に行く途中に大きなお屋敷が何軒かあり、道路が舗
装されていなかったのでタンポポなど食べられる野草が道ばたに生えていました。
これを摘んできてあく抜きしておひたしにして食べました。
庭はもちろん全て家庭菜園でした。後年田舎の工場に赴任したとき、なす、きゅうり、
トマト、ジャガイモ、里芋など当時家庭菜園の定番だった野菜をバスの窓から見て名前
を当て、土地の人が感心しました。
サツマイモとカボチャは準主食でした。
三度三度食べるので、皆これに食傷していました。食料に不自由しないで済むようにな
ってからは、顔を見るのも嫌でした。
それから40年ぐらい経って偶然食べたところ、「これはうまいじゃないか」とわれわ
れ芋・カボチャ食傷世代も皆食べるようになりました。
当時は糖尿病、胃潰瘍、痛風などという典型的な成人病にかかる人は皆無でした。
甘いものはもちろんなし。従って虫歯もできませんでした。
口に入るのは健康食品ばかり。不足している栄養はタンパク質や脂肪分。
病人は結核患者だけ。
カレーライス、トンカツ、大福餅、チョコレートなどと聞くと口の中に唾が湧いてくる。
バター、チーズなどは高嶺の花。
白米のご飯(銀シャリという言葉がありました)を腹一杯食べたいというのが腹ぺこ少
年の最大の願いでした。
私が大学4年生の時、夏休みに兄の下宿に居候をして神戸の川崎重工業の工場に実習
に行きました。
当時東京では外食券(米が配給でしたから)がないと、建前としては外でご飯ものを食
べることができませんでした。
関西ではほとんど配給が有名無実化していて、甲子園口の商店街のうどん屋で兄が親子
どんぶりをご馳走してくれました。
あれから50年、今でも私は親子どんぶりが大好きです。
でも都心有名店で食べたことがありますが、あのときの親子どんぶりほど美味しいもの
を食べたことがありません。「空腹は最上の料理人」というのはまさしくその通りです。
食料買い出しの話については、島さんも書いておられます。
私はもっぱら東武東上線の高坂に行っていました。
池袋から電車は超満員。座席に座っていられず、皆座席の上に立っていたので電車の中
は真っ暗。腕も動かせない混雑です。
その車内でどなたか悪臭のガスを放出なさった方がありました。
次第に車内に臭気が拡散してきたとき、誰かが「くせー」と叫びました。
鼻をつまむこともできず、皆肺で悪臭ガスを浄化したわけです。
世にも悲しい物語でありました。
念のために放出したのは私ではなかったことを名誉のため申し上げておきます。
目次へ