2004.3.10

戦争の話

                                                          増田 次郎


次は戦後の話と思いましたが、思い返してみると書き漏らしたことがいろいろあります。

年寄りは話がくどいものです。もう少しお付き合い下さい。


中学の同級生A君は目黒区に住んでいました。

5月25日の翌朝彼の家がどうなっているか見舞いに行きました。歩いて行くと、道中

は見渡す限り焼け野原。その道路の脇に女の人が横たわっていました。

頭のところには破れかけたこうもり傘がさしかけてありました。身動き一つする様子も

なく、多分亡くなっておられたのではないかと思います。

不人情なことに私は横目で見ただけで通り過ぎました。

今なら考えられないことでしたが、あの空襲では人の死はまさしく日常茶飯事でした。

A君の家は焼け残っていました。帰りも同じところを通ったと思うのですが、女の方が

どうなっていたか何も覚えていません。本当に異常な時代でした。


6月だったと思いますが、大型爆弾が柿の木坂に落ちたときは眠っていたので爆発音し

か聞いていません。家がすごく揺れました。一発だけだったので、驚いただけでまた直

ぐ寝てしまいました。


以下は戦後早稲田に入学してから同級生に聞いた話です。

T君は私より年が2−3才上だったので兵隊にとられていました。

本土決戦に備えて九十九里浜で訓練を受けていたそうです。

しかしその訓練たるや、たこつぼ防空壕に入っていて敵の戦車が真上に来たとき爆弾を

破裂させるというすごいものでした。イラクやイスラエルでの自爆テロと同じです。


私は空襲しか知りませんが、日立製作所に動員されていた友人にいわせると、艦砲射撃

の方がもっと恐ろしかったそうです。

空襲の場合は飛行機の爆音が聞こえ、焼夷弾が落ちるときには風を切る音がする。

ところが夜海上にいる敵の軍艦が大砲を撃つと、闇夜に突然砲弾が飛んでくる。

逃げるも何もあったものではない。

茨城県の海岸にあった日立製作所の工場群はほとんどが艦砲射撃でやられたそうです。


横浜で農作業していたとき、山の上から突然敵の戦闘機が低空で飛んできました。驚

いたの何の、あわててはいつくばりましたが機銃掃射はしませんでした。されていた

ら生きていなかったかも知れません。


横浜から世田谷に帰る途中で空襲にあったことが何度もありました。

もちろん電車は止まってしまいます。仕方がないから東横線の線路の上を歩くわけです

が、怖かったのは玉川の鉄橋です。真っ暗闇の中を線路の枕木を踏んで歩くのですが、

はるか下に月の光に照らされた水面が光っているのです。

私は高所恐怖症ですから足がすくみ、男性のシンボルは縮み上がり、肛門から冷たいも

のが腹の中に入ってきました。それでも橋を渡らなければ帰れないから、頑張って渡り

ましたが、あれには本当に参りました。


あのころは空襲の度に電車が止まるので、どこまでも歩きました。

青物横丁の動員先から野沢の自宅まで帰るのに大井町線の線路を歩いて大岡山に出て、

それからどう歩いたか思い出せませんが割に楽に帰宅できました。

私の仲のよかった友人U君は、高円寺に住んでいたので「お前は近くていいな。おれは

まだ大分あるよ」といって歩いて行きました。足は皆丈夫でした。


今日は3月10日。

下町大空襲の日です。こんな話を書くのも何かの因縁かも知れません。
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